前田まり子さんがレシピを考案する「ブッダボウル」(写真=『ブッダボウルの本』より)

写真拡大

あなたにとって大事なものは、稼ぎか、それとも休みか。フード・アーティストの前田まり子さんは、かつて神奈川県葉山町で超人気パン屋を営んでいた。仕事は充実し、稼ぎもあったが、どうも休まらない。思い切って13年目のときにパン屋を人に譲り、「週休3日」の暮らしに切り替えた。人気パン職人は、なぜ働き方を変えたのか――。

■全国からパン好きが集まる人気店を経営

フルーツや野菜、豆類をひとつのボウルに入れて食べる、「ブッダボウル」というメニューがある。アメリカで生まれ、「オシャレでヘルシー」ということからインスタグラムで広まった。日本では認知度が低いが、東京都渋谷区恵比寿にある「マリデリ」はこのメニューの専門店だ。独立した店舗ではなく、カフェバーの営業していない時間帯を使って、平日火曜〜金曜日の12:00〜15:30のみオープンしている。

「マリデリ」の店主で、7月にレシピ集『ブッダボウルの本』(百万年書房)を刊行した前田まり子さんは、かつて神奈川県葉山町で人気のパン屋を経営していた。

パン屋の名前は「カノムパン」という。2000年の創業当時には珍しかった天然酵母パンを扱い、その名前はパン好きの間ですぐ知れ渡った。全国からお客さんが訪れる盛況ぶりに、週休2日でもまったく休まることのない毎日を送っていたという。

■パン職人を目指していたわけではなかった

「休みの日も1日はお店のことで潰れてしまうことがほとんどで、2日まるまる休めることはまれでしたね。せっかく葉山という海の街に住んでいたのに、夏に海で泳いだことはほとんどなかったです。朝4時に起きて、3〜4時間かけてパンを発酵させて、成形をして焼き出したりランチの仕込みをしたりしていると、もう開店時間の12時。午後3時くらいにお店が落ち着いてきたら、パン作りの過程で出た粉塵の掃除をしたり、明日のパンのために酵母の培養をしたりして、6時にお店を閉めたら次の日の買い出しに行って……。朝が早いので毎晩10時くらいには眠りにつく、遊ぶ余裕のないスケジュールでした」

そんな前田さんは、昔からパン職人を目指していたわけではない。

「高校を卒業するとき、親が厳しかったこともあって、『好きな仕事につく』という選択肢はありませんでした。就職しないといけなかったので、コンタクトレンズメーカーの検査員として働き始めました」

だが新卒で入社してからわずか1年半後、「コンタクトレンズの傷の有無を見極められるようになっても、私の人生でなんの役に立つのかな?」と思ったことをきっかけに退職。その後は自分がやりたい仕事として、アパレル業界に飛び込んだ。「自分の好きなブランドで働くことが楽しくて、夢中になっていました」と振り返る。

しかし、アパレル2社目で、テナントとして入っていた大手ファッションビルの強引な営業方針と衝突。「無理のある接客がそんなに好きじゃない」と、5年ほど働いたアパレル業界からも離れることとなった。

次に働く場所として選んだのは、下北沢の有名雑貨店であり喫茶店も営んでいた「木曜館」(2013年閉店)。昭和レトロなアンティーク雑貨や手作り雑貨を扱い、フジコ・ヘミングや寺山修司から愛された名店だ。

「当時はバブルの頃で、学生バイトの一般的な時給は900円ぐらいだったのに、木曜館の時給は550円(笑)。それでも、そこで働く人たちはみんな自分の好きなことを仕事にしていて、それがすごく良かったんです。給料の安さはほかのバイトを2件掛け持ちして補っていました。そこまでしても、木曜館で働きたかった」

■25歳で「飲食の仕事で生きていく」と決意

25歳となっていた前田さんは、木曜館と並行して働いていた池尻大橋のバーで「自分は食べ物の仕事でやっていこう」と心に決めた。「自動車整備工場をリノベーションしたバーで、調度品は一流だし、お酒も本当においしいものを出していたお店でした。自分の知らなかった、新しい世界を感じることができたんです。それでネイルも落として爪を切って、飲食の仕事をしていこうと決意したことを覚えています」と、前田さんは話す。

以降、イタリアン、フレンチ、インド料理、アメリカンダイナー、紅茶専門店、カフェ、バーテンダー……と、さまざまなジャンルの飲食店でアルバイト経験を重ねていく。だが、その後、「飲食の仕事をする」という決意は相変わらず胸に秘めながらも、身内の不幸などが重なったことから、人生に行き詰まりを感じたという。そこで出会ったのが、天然酵母のパンだった。

「書店でたまたま、『うわっ、ふくらんだ! リンゴ、ブドウ、ジャガイモ、玄米…で自家製天然酵母のパンづくり』(自然食通信社)という本を手にとったんです。いろんなところの人たちがそれぞれ自分のやり方で、天然酵母のパンを作っている様子を紹介した本でした。天然酵母のパンを食べるのは好きだったので、その本を読んで『これなら私にもつくれるかも!』とすごくワクワクした。それで、軽い気持ちで作り始めたらすごく楽しくて、生きてきて初めて『私はこれをやっていくんだ』という感覚がありました」

当時、お菓子のデリバリー業などを手がけていた前田さんは、商品のラインナップに自身で作った天然酵母パンを並べ始める。以前からの顧客を中心にその評判が広がっていき、すぐ通販を始めるほどの人気を得た。

■売り上げ0円の日はオープン以来なかった

その後、当時のパートナーと共に葉山に移り住み、2000年に葉山で初めてとなる天然酵母パンを扱った「カノムパン」をオープンした。当時、天然酵母パンの存在は好事家には知られていたものの、一般的な知名度は高くなかった。それでも経営はすぐ軌道に乗ったという。

「オープン以来、売り上げが0円という日は一日もありませんでした。多分、パン屋だったからだと思います。パンは日常食なので、毎週買いに来る人もいたし、焼いた時の良い匂いで引き込まれて来る人もいる。お店が暇な時は通販をしていて、北から南まで全国に通販を利用してくれる常連さんがいたので、毎日何かしら売り上げが立っていたんです」

先述の通り、パン屋の運営は楽ではない。心無い客から、ひどいことを言われるときもあった。

「『粉を膨らませてれば、儲かるんでしょ?』と言われたことがあります。でも、小麦粉から臼から全部こだわろうと思えばいくらでもこだわれるし、憧れだけでは絶対にできないと思うくらい大変な仕事です。当時は『洋服を買うくらいなら、良い小麦粉を買う』って思ってました。何よりも好きだと思えなかったら、いつか嫌になってしまうでしょうね」

やがてカノムパンは地元にねづき、「あまりパンを好きじゃなかった男性が毎日通うようになってくれたり、SNSでパンが焼き上がったことを発信すると、近所の子どもがお金を握りしめてダッシュでお店に来てくれたり」という状況ができていった。当時のカノムパンについて、前田さんは「唯一無二だと思います」と胸を張って答える。

だが、オープンから13年目の2013年、当時共に働いていた仲間に引き渡す形で、前田さんはカノムパンを去った。店は葉山から鎌倉に移転し、現在も営業を続けている。

「『仕事がハード過ぎたから辞めた』ということではないんです。ちょうど10年目に、自分の中で『これで私のパンは完成した』と思ったから。天然酵母パンはやりつくしたから、卒業しよう、と。次は全く違うスタイルの仕事がやりたいと思うようになりました」

■いろんな働き方をしてわかった“向いている形”

そしてたどり着いたのが、冒頭で紹介した「マリデリ」だ。週休3日、昼のみの営業という、カノムパン時代とは打って変わったスタイルを選んだ理由はこう説明する。

「『マリデリ』を始めた当初は、病気をして体力もなかったのでガツガツ働かない時期だったんです。お料理教室やメニュー開発をして過ごしていました。そんな時『キッチンがあいてるから、何かやらない?』と誘われて、自分のペースでできる範囲というか、ある意味軽いノリでお店を始めたんです」

今は「土日は家のことをしながら夫と過ごして、もう1日で仕入れをしたりお菓子を焼いたりしている」という。

「これまでいろいろな働き方をしたことで、自分に向いている働き方の見分けがつくようになりました。私はメニュー開発も含めて、自分ひとりでやるのが向いているんだろうな、って。どこかの会社やお店に入って、そこのルール通りに働くこともできなくはないんですけど、そうすると自分のやりたいことについて、何も考えられなくなってしまう。あまり器用じゃないんですよね。今は自分がやりたいことができる居場所もあるので、それで良かったのかな、と思ってます」

----------

前田まり子(まえだ・まりこ)
フード・アーティスト
さまざまな飲食店で料理の腕を磨いたのち、自作のお菓子の卸し、クラブイベントへの出店などを開始。2000年、葉山に「カノムパン」をオープン。パンの製造販売、料理の提供、料理教室の主催、ラジオ・TV出演などを行う。現在はMarideli helps u lose ur mind名義でランチ、ケータリング、メニュー開発など、Natural&healthyをテーマに活動中。初のレシピ集『ブッダボウルの本』発売中。

----------

(フード・アーティスト 前田 まり子 構成=須賀原みち)