石井義信氏は1986年から1987年にかけて代表監督を務めた【写真:Getty Images】

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低迷期の日本代表を率いた石井義信氏 88年ソウル五輪出場を目指し下した苦渋の決断

「不細工なサッカーだが、選手たちがやり通してくれた」――石井義信(元日本代表監督)

 石井義信は、1986年の日本代表監督就任の際に、次のような抱負を語っている。

「攻撃的なサッカーでアジアの壁を破りたい」

 石井のキャリアを考えれば、当然の決意だった。1977-78シーズンのJSL(日本サッカーリーグ)で自ら指揮を執るフジタ(現・湘南ベルマーレ)は、シーズン最多得点を積み上げる圧倒的な攻撃力を見せつけて優勝を飾っている。数年前のインタビューでも、それを懐かしそうに語っていた。

「この間、改めて当時の試合の映像を見たのですが、今のJリーグと比べても、スピード以外はあまり遜色がありませんでしたよ」

 ところが日本代表を率いた石井の目論見は、あっさりと崩れた。86年秋に開催されたアジア大会で、イラン、クウェートの中東勢に完敗。「質の違いを見せつけられ」方向転換を迫られるのだ。

 日本サッカーは、68年メキシコ五輪を最後に世界への扉を閉ざされていた。だが石井が目標に掲げる88年ソウル五輪は、予選でライバルの韓国(開催国枠で出場)と戦う必要がない。20年ぶりに巡って来た大きなチャンスだった。

3週間後に延期されたホームゲーム

 アジア大会を終えると、守備的な選手を並べ、3バックへの変更に踏み切った。地区予選での当面のライバルは中国。当時は紛れもなく格上の相手で、身体能力に優れた強力な2トップを擁していた。

「守備で一人余らせるというよりは、余裕を持たせたかった」と述懐する。まだ日本には理想を追う実力はない。そう痛感したからこその苦渋の決断だった。

 ただし実力が伴っていないのは、ピッチ上の選手だけではなかった。石井は現役の代表監督としては初めてAFC(アジアサッカー連盟)の会議にオブザーバーとして出席している。そこで予選の日程が決まるからだ。石井が希望したのは、対中国戦を最初にアウェーで、翌週にホームで行うことだった。

 日程は希望通りに決まり、石井はJFA(日本サッカー協会)の村田忠男専務理事(当時)と手を取り合って喜んだ。ところが現地からJFAに連絡を取ると、東京でのホームゲームの予選開催を拒まれてしまう。同日にはすでに「コダック・オールスター戦」(JSL東西対抗戦)が予定されていた。こうして中国とのホームゲームは、3週間延ばしにされてしまった。

 87年秋、石井率いる日本は、アウェーで中国を1-0で下す番狂わせを演じた。

「不細工なサッカーだが、選手がやり通してくれた」

 指揮官として、与えられた辛い責務をこなしてくれた選手たちに感謝した。中国の高豊文監督とは旧知の間柄だったが、試合後に挨拶に行くと「ショックで顔も紅潮し、気もそぞろだった」という。もし翌週が折り返しのホームゲームだったら、「(中国の)立て直しは難しかったろうな」と思った。

痛恨の予選敗退を契機に、本格的にプロ化の道へ

 しかし3週間開いたことで、中国はしっかりと日本を分析し、対策を立てて東京・国立競技場でのアウェー戦に臨んできた。結果は日本が0-2の敗戦。五輪切符が手のひらからこぼれていった。

 だが専守防衛でも五輪出場を逃した痛恨の予選を契機に、ようやく日本サッカーは本格的にプロ化へと動き始める。

「当時は対戦相手国の情報を集めるのも自腹でした。あまりに負担が大きいのでやめた方がいいと忠告してくれた人もいます。でも、やはり日本代表監督は男冥利に尽きるじゃないですか。悩んだ末に、お引き受けすることにしたんです」

 どん底を支えた知将が、また一人、この世を去った。(文中敬称略)

※石井義信氏は、4月26日に逝去されました。謹んでご冥福をお祈り致します。(加部究 / Kiwamu Kabe)

加部究
1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近東京五輪からプラチナ世代まで約半世紀の歴史群像劇49編を収めた『日本サッカー戦記〜青銅の時代から新世紀へ』(カンゼン)を上梓。『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(ともにカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。