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V8エンジン搭載のシトロエンがあった

シトロエンはV8エンジンを積んだ22CVと名付けたトラクシオン・アバンを計画した。1934年開催のパリ・サロンまでにエンジンが準備できなかったため、フォードV8を搭載した3台の展示車両で急場を凌いだ。

1934年にミシュランがシトロエンの経営権を握った後、このプロジェクトは破棄され、試作車も廃棄された。しかしそのうちの一台は生き残っていたのだ。

1948年、フランスのシャルトルにあるディーラーに、かつてフランスの植民地であったベトナムから謎の電報が届いた。その電報は22CVのウォーターポンプ再生に必要な部品に関する問い合わせだったのだ。残念ながら部品は欠品で、その後誰もこのクルマの行方を聞いたものはいない。

「ウーズレー」の跡地に、ウーズレーという名のレストランがある

ピカデリー・サーカスの近くにあるウーズレー・レストランは今ではロンドンで最も名高い高級レストランのひとつである。

しかしこのレストランの名前は英国の高級車メーカーであったウーズレー・モータースのディーラーにちなんでおり、このディーラーは1926年までこの場所に存在した。

サーブ版のインプレッサがかつてあった

GMとスバルとのつかの間の提携は、サーブ版インプレッサを生み出すこととなった。9-2Xと名付けられたこのクルマは、9-3セダンのひとつ下のクラスとして、サーブの入門車に位置付けられた。

サイドデザインはインプレッサとよく似ていたが、フロントマスクはサーブ風であり、リアのライトにはサーブ・ブランド特有のデザインが採用された。

全て4輪駆動であり、最上級モデルにはWRX譲りの230ps水平対向4気筒エンジンが搭載された。9-2Xは北米市場のみで2004年と2005年に販売された。

初代フォルクスワーゲン・ゴルフは2009年まで作られていた

フォルクスワーゲンの初代ゴルフは2009年まで南アフリカで生産されていた。フォルクスワーゲン南アフリカは1978年以降、1984年により大きく、より高価な2代目が登場した後も、この初代を作り続けていた。

シティ・ゴルフとして、この初代ゴルフは南アフリカで31年間の長寿を全うし、数多くの派生モデルを生み出した。発売当初、わずか3色(最初の広告が宣伝したのは、赤、黄と緑ではなく青だった)のボディ・カラーと小さなエンジンから始まった歴史は、スポーツとCTIと名付けられたGTIにまで拡大された。

1988年には新型グリル、大型バンパーや特徴的なDピラーデザインなどの採用による外観変更も行われ、2004年にはスコダ・ファビアから新たなダッシュボードが移植された。2010年、シティ・ゴルフはポロ・ヴィヴォと呼ばれる4代目ポロにその役割を譲った。

フィンランド製のポルシェ・ボクスター/ケイマンが存在する

もし英国で1997年から2011年の間に製造されたポルシェ・ボクスターかケイマンを所有しているのなら、恐らくそれはフィンランド製ポルシェだろう。

更にはラーダ・ユーロサマラ、オペル・カリブラとシンク・シティEVが生産されたのと同じ工場製かも知れない。

これら4つのモデルの生産時期は重なっており、フィンランド南西部にあるヴァルメト社のウーシカウプンキ工場で製造されたのだ。

このウーシカウプンキ工場は1968年にサーブとスカニアにより設立され、95と96から9-3コンバーチブルまで数多くのサーブ車を製造してきた。1980年代にはタルボットの生産を行い、今日ではメルセデス・ベンツ向けにAクラスとGLCクラスの製造を行っている。

これを奇妙な取り合わせだとお思いかも知れないが、ピニンファリーナのトリノ工場では、かつてトラクターがフェラーリ・テスタロッサとアルファ・ロメオ・スパイダーのボディと同じ製造ラインを流れており、この光景は成金のテスタロッサ・オーナーよりも農家のひとびとを喜ばせたことだろう。

1986年式ローバー800は一時日本で製造されていた

1986年式ローバー800は1979年に始まったホンダとの提携のもと、一時日本で製造された。

800と初代ホンダ・レジェンドは両社によって共同開発されたが、この提携のもと、レジェンドをローバーのオックスフォード工場で製造すると共に、日本で生産された800を日本と豪州、ニュージーランド、及び南太平洋の国々で販売することも検討された。

しかし2年後、ホンダが品質問題によってオックスフォード工場での生産からの撤退を決め、不人気な800も日本での生産を早期に中止したことで、この計画は短期間で終了した。

しかし、両社のつながりは更に深まり、1994年にBMWがローバーを買収するまで続いた。BMWに買収されたにもかかわらず、ローバーはこのそれなりだが、時代遅れとなったホンダ車ベースのモデルを、2005年のブランド終焉の日まで作り続けた。

800シリーズは、米国市場では1987年から1991年までスターリング・ブランドで販売されたが、この試みも成功とはならなかった。

中国製のチェロキーが(一瞬)造られたことがある

驚くべき先見の明をもって、アメリカン・モータース・コーポレーション(AMC)は1984年、中国における最初の自動車合弁企業を設立した。

この合弁によって、日本製オフロードモデルのライバルとなる独自モデルを製造し、アジア各国へ輸出することを目論んだが、実際には自国市場向けにXJチェロキーを生産しただけで終わった。

この生産は、中国市場向け独自デザインを含めたいくつかの小規模改良を行いつつ2009年まで続いた。

メルセデス初のプラグイン・ハイブリッドは1982年にあった

123はメルセデス・ベンツの最初のプラグイン・ハイブリッドとなったかも知れない。

1982年、このドイツメーカーはトランクにニッケルー鉄バッテリー、ボンネット下に42psのモーターを積んだT123を発表した。

2気筒のレンジ・エクステンダー用エンジンは航続距離を48km延ばし、このワゴンは1回の充電で約145km走行する事ができた。

しかし、80km/hしか出ない最高速度など、いくつかの欠点があったため、経営陣が製品化を真剣に検討することはなかった。

ローバーのガス・タービン列車が存在する

1950年にローバーはJET1と呼ぶガス・タービンを動力源とするプロトタイプを開発した。1967年にレイランドに買収されるまでローバーはこの開発を継続したが、レイランドのボスがこの技術をよりトラック向きだと判断したため、この開発作業はランカシャーにあるレイランド社に移されることとなった。

1970年代初頭、イギリス国鉄は車体傾斜式の先進旅客列車の開発を行っており、この列車は英国内の古く、曲線の多い路線を201km/hで走る計画であった。

イギリス国鉄は、原理的にはガス・タービンであるロールス・ロイス・ダートの航空機用エンジンを使って実験用APTの製造を計画した。その後、彼らはローバー製ガス・タービンを使って巨大な交流発電機と、それによって電動トラクション・モーターを駆動させることにした。これは正にわれわれの知るレンジ・エクステンダーEVの始まりである。

この技術は、鉄道に必要となる何百マイルもの送電線敷設に必要なコストを掛けることなく、ガス由来のクリーンな電気で電車を走らせる事ができるようにするものであった。

プロトタイプのAPT-Eには10基のガス・タービンが積まれ、1975年にはスウィンドンとリーディングの間で245km/hを記録している。1976年6月にテストは終了し、車両は現在シルドンの国立鉄道博物館に保存されている。

アラード、レクサスとパートナーだった 生産3台のみで1台現存

これまでで最もありそうもなかった自動車業界におけるパートナーシップのひとつは、1992年のアラードとレクサスのそれだろう。

方や数十年の眠りから覚めたばかりのメーカーであり、一方は設立後間もないメーカーだった(どちらがどちらかは皆さんのご想像にお任せする)。

アラードによって、レクサスLS400のフロントとリアには新たにデザインされたボディが与えられ、インテリアも張り替えられた。しかしでき上がったクルマは一見して機械的な標準を達成できておらず、わずか3台が作られたのみで、そのうち1台が現存していると伝えられる。

ランチア・デルタのサーブ版が存在するが歴史から抹殺

サーブとランチアが最初に協業したのは9000とテーマを作りだす事になったタイプ4計画とお思いかも知れないが、実際はそうではない。

1980年、この2社はランチア・デルタのサーブ版となる、1.5ℓエンジンを積んだ前輪駆動モデルのみのサーブ600を生産するためにチームを組んだ。

残念ながら、当時ランチアに同様のモデルが存在したため、サーブ・ブランドにターボ付き4輪駆動モデルが導入されることはなく、600ははるか昔にディスコンとなり、サーブの歴史からも抹殺されている。

モーリス・マイナーの「帯」 ある子爵のわがままが理由だった

1948年、アレック・イシゴニスが設計したモーリス・マイナーが発表された。

モスキート(蚊)のコードネームが与えられたこのクルマを、イシゴニスは水平対向4気筒エンジンと前輪駆動を特徴とした新たなファミリー・サルーンとしたかったが、このアイデアは社長のナフィールド子爵には急進的過ぎた。

デビューまで1年をきったタイミングでイシゴニスが子爵に最終プロトタイプを見せたところ、子爵が車幅を4インチ広くするように指示したため、車両を真ん中で切断してボディを継ぎ足すことにした。

これがモーリス・マイナーのボンネット中心に4インチ幅の帯ができた理由である。