アメリカでプレーする筆者(撮影:J.W.Toy)

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プロ野球選手になれる人はほんの一握り。多くの人は野球をやめて就職する。だが諦めきれずに野球にしがみついて生きている人もいる。苦しいとわかっていても、なぜ野球をやめられないのか。現在、アメリカの独立リーグでプレーする現役選手・宮寺匡広さんによる特別寄稿をお届けする。

アメリカ国内には、メジャーリーグ傘下に属さず、独立経営で運営されているプロ野球独立リーグが複数存在している。そのひとつ、パシフィック・アソシエーションリーグのソノマ・ストンパーズに、私は選手として所属している。昨シーズンの途中から入団し、今年が2年目。ポジションは主にショートを任されている。

アメリカ独立リーグ初の日本人監督・三好貴士の下、昨年はリーグ優勝を果たした。チームに所属しているのは、アメリカ人23人、キューバ人1人、日本人3人。マイナーリーグで活躍していた選手も多く、投手陣の奮闘と機動力を生かした攻撃で今年も首位を走っている。

メジャーリーグやNPBという華やかな大舞台に立てるのは、ほんの一握りの野球選手だけだ。多くは幼少時から始まる競争の過程で、プロへの道を断念する。だが、何度ふるい落とされても、あきらめず野球にしがみつく者もいる。かくいう私も、そのひとりだ。

■セブンイレブンを退職しての挑戦

海外に目を向けるようになったのは、野茂英雄氏の活躍や、マーク・マグワイアとサミー・ソーサの熾烈なホームラン争いなど、テレビから伝わるアメリカ野球の影響が大きかった。いつかは、自分もアメリカで……。そんな思いを子供の頃から、抱き続けてきた。

学生時代は、甲子園で2度の優勝経験がある日本大学第三高等学校(日大三高)、大学野球屈指の人気を誇る東京六大学リーグの慶應義塾大学で、野球部に所属していた。だが、日大三高での公式戦出場機会はなく、一般受験で入学した慶應義塾大学でも、神宮球場での出場機会は幾度かあったものの、代走や代打と目立った活躍はできなかった。

それでもアメリカで野球をやりたいと思い、行きついたのが、独立リーグだった。大学野球引退後、入団テストを受けるため、アメリカ各地を回る。結局どこにも受からず、一度は、セブン−イレブン・ジャパンに就職した。だが、27歳で現役復帰を決意し、退職。サラリーマン時代に貯めた資金を元手に、入団テストに参加した際にできたツテをたどって、2013年、ペコスリーグのラスベガス・トレインロバーズに練習生として所属することができた。

アメリカで1990年代中頃から急速に増え始めた独立リーグは、現在8リーグ存在する。メジャーリーグやマイナー組織を自由契約になった選手や、高校・大学を卒業後、メジャー組織と契約を結べなかった選手で主に構成されている。

競技レベルは、そのリーグの人気や経営基盤に比例する。経営が不安定で、発足から数年で消滅するリーグも多い。スポンサー集めや集客などがうまくいくと、リーグとしての興行が成り立ち、設備投資にも力を入れることができる。選手の給与水準も高くなり、より良い選手を獲得しやすい。独立リーグの中には、観客動員数でメジャーリーグにひけをとらない、セントポール・セインツ(アメリカン・アソシエーションリーグ)のような人気球団も存在する。

独立リーグ最高峰と呼ばれるアトランティック・リーグは、元メジャーリーガーも在籍していた。マイナーリーグはメジャーリーグを頂点に上から3A、2A、1A、ルーキーリーグと、競技レベルに応じてランク分けされているが、アトランティック・リーグは3Aと同等と言われている。かつては、元千葉ロッテの渡辺俊介や元阪神の坪井智哉が在籍していたこともある。また、2Aレベルといわれるアメリカン・アソシエーションリーグでは、かつてオリックスに所属していたアレッサンドロ・マエストリや、阪神・千葉ロッテで活躍したクレイグ・ブラゼルもプレーしていた。

NPBの一歩手前、もしくは匹敵するレベルを持つ独立リーグも少なくなく、メジャーのスカウトたちも、そうしたリーグの球場に頻繁に足を運ぶ。

■1台のベッドを2人で使う過酷な遠征

13年に私が所属していたペコスリーグは、アリゾナ州、ニューメキシコ州など、アメリカ南西部を中心に行われているリーグだ。独立リーグは全米を移動するほどの資金はないため、地域ごとに展開されている。ペコスリーグは最も薄給のリーグで、月給200〜400ドル(当時のレートで、2万3000〜5万円ほど)。2カ月半で70試合をこなす過密スケジュールで、遠征になると小さなバンで10時間移動の後、着いた先ですぐ試合、ということもある。経費削減のため、遠征先のホテルでは2人部屋を4人で使い、ベッドは2人で1台という過酷さだ。若い選手が多く、荒削りなプレーが目立つのがこのリーグの特徴でもある。

15年に所属したカナディアン・アメリカンリーグ(通称キャナムリーグ)は、アメリカとカナダに3球団ずつあり、それぞれ1試合あたりの観客動員数は数千人規模で、競技レベルもアメリカン・アソシエーションリーグと肩を並べる。最低月給は800ドル(8万8000円)で、元メジャーリーガーのような実力者の中には、5000ドル以上もらっている選手もいるという。

現在私が所属するソノマ・ストンパーズでは、1週間に6試合をこなし、3カ月で78試合が組まれている。ソノマが属するパシフィック・アソシエーションリーグは、カリフォルニア州北部で行われ、競技レベルや給与面でいうとだいたい中堅のリーグだ。観客は多い時には1000人以上入るが、平均的には200〜300人といったところ。選手の住居は、球団が用意してくれた地元のホストファミリーにお世話になる。平均給与がだいたい月700〜800ドル。食事は毎試合後に球団から用意してもらえるので、特に贅沢をしなければ問題なく生活できる。試合が始まるのは、毎日夕方18時からがほとんど。選手たちは試合前練習やグラウンド整備などのため、5〜6時間前には球場に来て準備を始める。気軽にどこか出かける時間や余裕もなく、シーズン中は野球漬けの日々を送っている。

■ノーアポで監督に入団を直訴

アメリカやカナダの独立リーグのほか、オーストラリアのクラブリーグでプレーしたこともある。やっとの思いで契約を勝ち得ても、成績不振でクビになるのはどこの国も共通している。結果が出ないとすぐに解雇されるのが、海外野球の厳しさだ。

だからと言って、簡単には引き下がれない。所属チームがない時期は、各リーグの試合が行われている球場を回り、スタンド最前列から、また時には球場の外の職員通用口の前で選手やスタッフに話しかけ、監督につないでもらい、拙い英語で「入団テストを受けさせてくれ」と懇願する。わざわざ日本から来たことを知れば、たいてい試合前練習に交じらせてもらい、実力ぐらいは見てもらえる(たまに門前払いもあるが)。多くの場合、登録枠に空きもないし、抱えている戦力に問題がなければ契約に至ることはない。それでも、心意気を買ってくれる人もいる。キャナムリーグのトロワリビエール・イーグルスの当時の監督、ピエール・ラフォレストは「その行動にリスペクトだ」と言って、契約してくれた。チャンスは自分で作り、自分でつかみに行くものだ。

このようにしてシーズン中はなんとか海外野球にしがみつき、オフ期間中は東京都八王子市にある知り合いの乾物屋で働きながら生計を立て直し、シーズンになるとまた海外に挑戦するという生活を送っている。

航空券や、所属がない時の交通費や生活費で、大幅に赤字になる年もある。独立リーグの薄給では貯蓄も期待できない。犠牲にしてきたものも数知れない。学生時代の仲間たちは、家庭を築き、昇進やキャリアアップなど、順調に人生を歩んでいるようにみえる。

安定した道を選ぶことに最大の価値を置く日本社会において、私のような存在は、社会学者・山田昌弘の著書『希望格差社会』によれば「不良債権」だと言われ、「自分探し」などと揶揄されることもわかっている。

■海外で味わう挫折、日本で感じる焦燥

同じように、国内外で挑戦を続けようとする野球人は、ほかにも複数存在する。皆バイトで貯めたなけなしの資金で挑戦したり、自ら事業を起こしたり、スポンサーを募って資金を用意したりしている。

現実には、行く先々で力の差を痛感し、挫折を味わう。何度も入団テストで不合格を突きつけられる。わずか数試合で解雇される。所属が突然なくなり、次の行き先が不透明になる。周囲からのネガティブな声や同調圧力に悩まされる……。

それでも、挑戦し続けることを止めない。技術を追求し、高みを目指し続ける者。指導者となり、挑戦し続ける者。海外で活路を見出す者など、多様なストーリーがここには存在する。

かつて、NPBを経由せずにメジャーリーガーとなったマック鈴木氏は、次のように話す。

「俺みたいなのは野球しかなかったから。そこでなんとか、野球で飯食えたけども、果たして今海外を目指してる選手たちの中には、わざわざそこを通らなあかんかって言ったら、通らんでええんちゃう? っていう人のほうが多いと思う。でもね、通ったことで、普通の人じゃできない経験ができるのは確か。メジャーの景色を見ると、『やっぱいいな』って思う。またマイナーに落とされても、長いバス乗らなあかんくても、『あそこにまた戻りたい、あの景色を見たい』っていう気持ちやったから、挑戦し続けた。(海外に挑戦する)みんなのは、そういう景色じゃないと思うねん。そういう景色じゃないけども、似たようなものを追いかけてると思うねん」(筆者著書『NPB以外の選択肢』より引用)

描くビジョンはそれぞれ違う。だがその根底に、「野球が好きだ」という強い思いが共通していることだけは間違いない。続けることで道が開けることもあるし、その行動自体が人生全体を充足させてくれるかもしれない。社会的な成功や安定といった価値基準では、決して計ることはできないと思う。このような野球人たちの生き方が、社会の価値の多様性につながることを我が事として願っている。

(野球選手 宮寺 匡広)