コーチ、監督として現場で指導に当たるか。テレビなどで解説者、評論家になるか。言い換えれば、現役時代のように取材される対象でいるか、それとも、立場を変えて取材する側に回るか。それ以外の道に進む人もいるだろうが、現役を引退した選手の進路は、概ねこの2つに大別される。

 それぞれの立ち位置が入れ替わる場合もある。監督だった人がテレビ解説者、評論家になること、あるいはその逆は、よくある話ではある。だが両者の関係は水と油。対峙する関係にあるのが本来の姿だ。緊張関係に包まれているべきものだが、それが脆弱なのが日本だ。解説者、評論家がテレビ等で、鋭いジャーナリスト魂を発揮する機会は少ない。

 最近、ある対談でラモス瑠偉氏が「僕が監督なら、本田圭佑はボランチ」と述べたことが話題を集めたそうだが、むしろ、この程度の話が見出しになることに緊張関係の無さが浮き彫りになる。解説者、評論家の肩書きを持ちながら“こっち側”に位置する人に見えてこない。ツワモノが自由に意見するプロ野球との大きな違いだ。サッカーの方が野球より数段、感覚的で、見解に違いが生じるのが普通な競技にもかかわらず。残念ながら、エンタメ性の向上に貢献しているとは言い難いのだ。

 監督にとって逆サイドに位置する解説者、評論家は嫌らしい存在だ。天敵のようなものだが、SC相模原の安永聡太郎監督は、その感覚が薄いのか、解説者、評論家もこなすダブルスタンダードを貫いている。

 同チームの監督に就任したのは昨季途中だが、スペインリーグのテレビ解説はいまなお継続中だ。詳しくチェックしたわけではないが、Jリーグの監督では、唯一の存在だと思う。大丈夫なのかと心配になる。J3とスペインリーグ。次元が違うことは確かだが、監督と解説者、評論家の次元はそれ以上に違う。監督は評論家であってはマズいのだ。

 このダブルスタンダードを成立させるためには、なにより、相模原のファンの理解が必要になる。よい解説、よい評論をすればするほど「だったらウチのチームで実戦してくださいよ」という話になる。

 昨季、相模原の監督に就任したとき、そのサッカーに注目だ! と、このコラムで述べている。スペインリーグの解説を聞く限り、他の監督より面白そうなサッカーを実戦してくれそうな予感がしたからだ。そして実際、就任当初は、日本サッカーには珍しい、おっと思わせる攻撃的なサッカーを披露した。ところが、チームの勝ち点は全く伸びず、順位もずるずると後退。よくない話は、それだけではない。シーズン終盤に見たサッカーは、就任当初とは180度異なる、ガチガチの守備的サッカーに激変していた。保身のためにブレてしまったわけだ。それを知る選手には、スペインリーグで解説をする監督の姿がどう映るだろうか。

 安永監督はすっかり辻褄が合わない状態に陥った。口ほどもないヤツと言われても仕方がない、穴があったら入りたい恥ずかしい状態にある。どちらかは辞める。それが普通の感覚だろう。番組への露出の仕方としては、ゲストという立ち位置が精一杯。にもかかわらず、評論性の高い解説を臆することなく続けている。

 現Jリーグ副理事長の原博実氏も、協会の技術委員長、専務理事時代、海外サッカーを、解説者の立場で伝えていた。あるとき、話の流れで、アナ氏から日本代表に少し絡む質問を受けたことがあった。それに答えるのが解説者、評論家の仕事だが、原サンはそれに答えず体よくスルー。サッカー協会で代表強化に従事する立場なので、当然といえば当然だが、立ち位置の不自然さを露呈させることになった。

 解説者、評論家とは、当たり前だが、サッカーを解説、評論する人だ。そこに、評論される側の人が就くことは、一線を越える行為にあたる。代表監督が、解説者、評論家として活動することと同じだ。テレビ解説者としての原サンの喋りは当時、確かに面白かった。本人がその評判に気をよくしていたのか、あるいは喋り好きなのか、定かではないが、立場を弁えれば、そちらの方面の活動は、自粛すべきだったと思う。

 そのダブルスタンダード。まるで異なる名刺を都合よく使い分けている感じだ。ジャーナリスト出身の監督が、監督に就任してもなお、ジャーナリスト活動を展開しているのと同じ理屈。監督は評論家ではない。現役の監督がサッカー解説者の座に座り続ける姿と、プロ野球のような、名物解説者、評論家が誕生しない理由、あるいはエンタメ性が誕生しない理由とは密接な関係にある。プロ意識に問題あり。僕はそう思うのだ。