第69回:稀勢の里

大相撲初場所(1月場所)では、稀勢の里が悲願の初優勝を果たし、
待望の日本出身横綱の誕生となった。その稀勢の里の飛躍について、
「宿敵」である横綱が語る――。

 大相撲初場所(1月場所)では、14勝1敗の稀勢の里が初優勝。場所後、72代横綱に推挙されました。

「横綱を狙える器」と誰もが認め、実際にここ数年の間は綱取りとなる場所が何度となくあった稀勢の里。これまではその”壁”をなかなか打ち破ることができませんでしたが、ようやく今回、重圧をはね除けて綱取りを果たすことができました。その悲願達成を、心から祝福したいと思います。

 横綱昇進、おめでとうございます!

 昨年の九州場所(11月場所)では、横綱・鶴竜が14勝1敗で3度目の優勝を飾りました。稀勢の里は準優勝ながら12勝にとどまり、初場所を迎えるにあたって、いわゆる「綱取り」の場所だったわけではありません。

 そして迎えた初場所、序盤戦は私と稀勢の里が全勝を続けていましたが、8日目に私が1敗目を喫し、翌9日目には私と稀勢の里がそろって敗戦。優勝争いは混沌としていきました。

 その間、横綱・日馬富士が7日目から、先場所の覇者である鶴竜も11日目から休場。3横綱のうち2人がいなくなって、ひとり残った私は横綱として一段と踏ん張らなければいけない状況になりました。

 しかし14日目、なんとか2敗をキープしていた私が、貴ノ岩に敗れて3敗目。この結果、1敗を守ってきた稀勢の里の優勝が決まりました。

 昨年は年間最多勝を受賞するなど、彼は本当に強い大関でした。そんな彼の努力が実っての優勝です。その瞬間、支度部屋にいた稀勢の里は涙を流していたと聞きました。ここに至るまでの苦労は相当なものだったと思います。

 この優勝が追い風となって、稀勢の里の横綱昇進が俄然現実味を帯びてきました。千秋楽、結びの一番は、私との対戦です。

 私は稀勢の里を土俵際まで追い込んだのですが、そこで残せるのが、彼の強さです。大関から次のステップに進む力士だというのを、この相撲で実感しましたね。

 場所後は、まさしく”稀勢の里フィーバー”が沸き起こりました。みなさんも、テレビなどのメディアを通じて、その盛り上がりはご存知でしょう。

 節分の日、成田山での豆まきでも、稀勢の里の話題で持ちきりでした。そのとき、ちょうど私も参加していて、彼と会話をかわす機会がありました。そこで、直接お祝いの言葉を伝えることができました。彼はいい表情をしていましたね。

 これから、どんなタイプの横綱になっていくのか、本当に楽しみです。その反面、私にとってはこれまで以上に闘志を燃やせる存在になりました。今後の対決へ向けて、私はワクワクしています。

 さて、初場所が終わったあと、第7回目となる『白鵬杯』が両国国技館で開催されました。


7回目を迎えた『白鵬杯』。未来ある少年たちが白熱した戦いを見せた『白鵬杯』というのは、日本の子どもたちをはじめ、モンゴル、中国、タイ、韓国、アメリカ(ハワイ)の子どもたちも参加する少年相撲大会です。今年は、およそ1200名、150チーム近いチームがエントリーしました。

 日本のチームは、全国各地の相撲道場の他、安美錦関、里山関、琴奨菊関、妙義龍関、豊ノ島ら現役力士たちも、つながりのある子どもたちでチームを結成して参戦。さらに、二子山親方(元大関・雅山)、時津風親方(元幕内・時津海)、西岩親方(元関脇・若の里)といった親方衆も、チームを率いて出場してくださいました。

 もちろん、私が率いる白鵬チームも出場。小学2年生から中学3年生まで24名の選手たちが、元気のいい相撲を取ってくれました。どの選手も精一杯の戦いを見せて、負けてしまった選手は泣きじゃくり、土俵を下りても涙が止まらない様子でした。その姿を見て、とても感動しました。力いっぱい相撲を取ることの大切さを、改めて痛感させられましたね。

 昨年、初めて出場した長男の眞羽人(まはと/小学2年生)も、今年2度目の挑戦を果たしました。昨年は1回戦負け。それが悔しくて、この1年間は宮城野部屋の合宿にも参加するなど、目いっぱい稽古を重ねてきました。

 しかし、今回も結果を出すことができませんでした。試合後、眞羽人も涙に暮れていました。勝負の世界とは厳しいものです。

「勝つ」ことはもちろん大事なことですが、この大会に向けて一生懸命稽古をしてきた、その努力と意欲は「勝つこと」と同じくらい尊いものだと私は思っています。今の眞羽人には、まだ難しい話かもしれませんが、こうした経験がいつか彼の人生の中で生かされればいいなと、父親として祈っています。

 大会は、今回も無事に終えることができました。参加してくれた選手のみなさん、ご父兄や指導者の先生方、そして審判を務めてくださった親方や関取衆、大会に関わってくださったすべての方に感謝の気持ちでいっぱいです。この場を借りて、お礼申し上げます。

 初場所後には、とても悲しい出来事もありました。

 1月31日の午前中、ガンで闘病中だった元時天空の間垣親方の訃報が飛び込んできました。37歳、あまりにも早いお別れです。

 モンゴル国立農大から東京農大相撲部に進み、国際大会などでも活躍してきた時天空関は、2002年名古屋場所(7月場所)で初土俵を踏みました。そこから22連勝を飾るなどして、一気に幕内まで駆け上がっていった勢いには目を見張るものがありました。私はその前年、15歳で入門して2001年春場所(3月場所)で初土俵を踏んでいるのですが、当時、その姿に圧倒されたものです。

 柔道経験者だったこともあり、けたぐりなどの足技のキレは抜群でした。関取衆の誰もが警戒していましたね。

 時天空関と私が初めて対戦したのは、ともに十両力士だった2004年春場所のこと。私は十両2場所目で、時天空関は新十両の場所でした。お互いに「負けられない!」という気持ちで戦ったことは、昨日のことのように覚えています。

 病が発覚した2015年九州場所から休場していたときには、モンゴル人力士の代表としてお見舞いに行かせていただきました。そして、昨年秋場所(9月場所)前に引退を発表。その秋場所では15日間、館内警備の仕事をなされていたのですが……。本当に残念でなりません。

 いろいろな思いを残して亡くなられた時天空関、どうか、私たちのこれからの姿を見守っていてください。

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