今回の11月の2連戦で、6月のキリンカップ以来の代表招集となった小林。まずはオマーン戦で出番を掴めるか。

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 2016年に日本代表デビューと海外移籍を実現させた小林祐希。すべてをサッカーに懸け、ブレずに信じた道を突き進んだ彼は、その負けん気の強さとたゆまぬ努力によって、夢を現実に変えてきた。まさに「有言実行」という言葉が相応しい小林のこれまでのサッカー人生に迫る。
 
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 冨樫剛一(現東京ヴェルディ監督)は、たっぷりと憎悪のこもった強烈な視線をぶつけられ、内心慄おののいていた。
 
「中学生の子が、こんな睨み方をす るのか、と本当に怖かったですよ」
 
 古巣・東京ヴェルディ(以下、東京V)のジュニアユースのコーチに着任した冨樫は、中学2年生の選手たちに背番号入りのユニホームを手渡していった。
 
「14 番、小林祐希……」
 
 殺気立った視線が刺さってきたの は、その瞬間だった。
 
 幼稚園の頃から突き抜けた才能を発揮してきた祐希にとって、10番を剥奪されたのは、ボールを蹴り始めてから初めての蹉跌(さてつ)だった。その晩は帰宅すると号泣したそうである。
 
 小林祐希の原点は、この筋金入り の負けん気にある。そして、それを引き出してフットボールに結び付けたのが、父の拓也だった。
「最初にボールを蹴ったのは幼稚園年中時で、近所のスクール(JACPA)の体験でした。1日参加して、すぐに入ると言いました」
 
 しばらくすると、拓也は近所の子どもたちを集めて団地の空き地でリフティングをやらせるようになるのだが、ガキ大将の祐希はほらの吹き合いでも負けん気を発揮する。
「オレなんか、50回できるぜ」
 
 それを聞きつけた拓也が、腹立たしさを露わにして祐希を挑発した。
「おまえ、言ってしまってできなかったら嘘になるんだからな」
 
 それから祐希は必死に練習し、左足1本で本当に50回突いてみせる。結局祐希のサッカー人生は、こうして最初の一歩から大言に追いつくために汗を流すことで幕を開けるのだった。
 
 リフティングの回数は、50回を軽く突破し、すでに幼稚園時代に1000回を超えていた。
 
「みんながダンゴ状態になると、その外で待っていて、ボールがこぼれて来るたびにゴールまで運んでいました」(拓也)
 
 格闘技経験を持つ父は、ダンゴ内に参戦してほしかったそうだが、突出したテクニックを持つ長男は、同時に早くから狡猾だった。
 
 そんな祐希の最初の熱狂的なファンになったのが、多摩みどり幼稚園の園長だった。
「この子は絶対Jリーガーになる」
 
 祐希が園庭を駆け回るたびにビデオを回し、暗くなっても練習ができるようにと照明をつけてくれた。
 
 早くも卒園時の文集で、祐希は誓っている。
「将来は日本代表になる」
 小学生時代から、祐希の毎日はサッカー一色に染まっていた。低学年まではスクール形式が主体となるJACPAで、特別にふたつのクラスを掛け持ち、土日には東村山市の「サンデーSS」に参加した。
 
 この年代では、前後半を総入れ替えして8人制で戦うことが多かった。祐希はフィールドでプレーしたあとの残り半分をGKで出場していたが、相手のシュートをキャッチすると、 そのままドリブルで運び始め、全員を抜いてゴールネットを揺らしたこともある。当時の祐希は、すべてを備えていた。プロになってから苦戦を強いられるスピードや運動量でさえ群を抜き、それを支えていたのが持ち前の負けん気と、必然的に形成されつつある勝利への責任感(プライド)だった。
 
 当時筆者は、フジテレビで『セリエAダイジェスト』の構成に関わっていて、プロデューサーとの雑談で祐希のことに話題が及ぶと、早速興味を示してきた。ちなみに番組で解説をしていたのが都並敏史で、この雑談に加わっていた。
 
 2000年シドニー五輪最終予選、日本が本大会出場を決める中継はこんな暗示的なシーンで始まっている。
 
 ボールを足もとに置いた少年が、高木を見上げ、未来への夢を馳せる――。それが祐希だった。
 
「近所の公園で撮影しました。すごく喜んでいましたよ。でも、結構長い時間をかけて撮ったのに、映ったのがほんの一瞬だけだったので、さすがにそこは拍子抜けしていましたけど(笑)」(父・拓也)
 
 それからしばらくは、中継本編の主役となった中村俊輔のプレーを焼きつけてから、サッカーに出かけていくのが日課になったという。
 
取材・文:加部 究(スポーツライター)