今、家具業界で注目を集める会社と言えば、お家騒動で世間を騒がせた『大塚家具』、そして、好業績を続けている『ニトリ』の2社だろう。大塚家具は、久美子社長の指揮のもと、今までの会員制をやめ、気軽に入れる店づくりを目指している。一方で低価格を売りにしてきた『ニトリ』は、中価格帯の商品を中心に揃えて4月に銀座に初出店した。両社とも新たな戦略を打ち出しているが、この2社の違いとはどこにあるのか? 専門新聞『ホームリビング』代表の長島貴好さんが創業の経緯から紐解き、解説してくれた。

――大塚家具は会員制をやめ、ニトリやイケアのような気軽に入れる店を目指すということですが、同じようなコンセプトになっていくのでしょうか?

長島:そうとは言い切れないでしょう。大塚家具は高くても長く使えるという質の良さを求める人たちに、ニトリやイケアは低価格ありきでその時に使いたいものを手軽に揃えたい人たちに受け入れられてきました。大塚家具は子会社として秋田に曲木の家具工場をもつものの、メインとしては小売り業です。ニトリは小売り業でスタートしましたが、現在はコストを抑える側面もあり、メーカーとしての機能も兼ね備えています。

 各社とも、価格だけではなく、他と差別化できる特徴を持っています。同じ客層のニトリとイケアを比べても、イケアは北欧に特化したデザインで勝負をしていて、ニトリは座り心地を追求したソファなど機能面に力を入れていますからね。

――高級家具を扱う大塚家具と、低価格〜中価格帯をカバーするニトリは対照的に感じます。創業者はお互いに同世代ですが、開業した背景はどう違うのでしょうか?

長島:大塚家具の創業者である大塚勝久氏は1943年生まれ、ニトリの創業者である似鳥昭雄氏は1944年生まれで同学年なんです。勝久氏の父は桐だんす職人で工房を営み、勝久氏は学生の頃から父の会社の経理などの業務を手伝っていました。当時は家具店というと、たんすがメインの商品だったので、1969年に大塚家具センターという大塚家具の前身となる家具店を勝久氏がつくったのは突飛なことではなかったんです。最初は桐だんす専門店でした。

 勝久氏は職人としての腕より、商才に長けていたんでしょうね。当時は婚礼などの時期に桐だんすが集中して売れ、その時期は職人も生産に大忙しでしたが、時期を外れると職人は暇になるんです。そこに目をつけた勝久氏は、閑散期に職人を集めて桐だんすを作らせて在庫を確保しておき、シーズンがきたら安く売ったんです。当時としては画期的な手法でした。

 私もその頃から家具業界に携わっていて「春日部(埼玉)にすごく売れている家具店がある」と噂には聞いていたのですが、それが大塚家具の前身でした。その後、日本人の生活様式の変化とともに桐だんす専門店から家具全般を扱う店に変わり、質の高い家具をそれに見合う価格で販売するようになりました。

 一方で、似鳥氏は戦後に樺太から引き上げ、ヤミ米を売る両親を手伝ったり、厳しい両親の元、同級生にもいじめられたりしながら苦労して育ったそうです。ようやく入った大学を卒業してからは、父の経営するコンクリート会社で働くなど紆余曲折を経て、“周りに競合する店がない”という理由で1972年に似鳥家具卸センターを開業して、創業時は父親と一緒に店を築いていったと聞いています。訳あり商品を安く買って売るなど、安さを売りにして成長していったんです。

――高くても質の良さを求めた大塚家具、買いやすい値段のニトリ、となっていったのは、創業の経緯から考えると自然なことだったのですね。順調に事業展開したのでしょうか。

長島:大塚家具は会員制ばかり注目を集めていましたが、最初から会員制だったわけではありません。会員制になったのは1992年からです。客が来店すると店員が1人つき、商品説明をするなど丁寧な接客をするスタイルで、特に結婚したばかりの夫婦にこのサービスが受けて企業として成長していきました。実は、会員制のショールームにしたことは、さまざまな規制を乗り越えるための策だといわれています。店舗として賃貸契約ができない場所も、“特定の人に見てもらうショールーム”と言って契約を結ぶことができるようになり、大規模小売店舗立地法もくぐりぬけられたといいます。

 この法律は、増える大型店から小さな商店を守るため、1974年に施行されました。ある面積を超える店舗が規制の対象になったのですが、家具は他の小売店に比べると商品自体が大きいので、不利なんです。当時の家具業界はこの壁に悩まされていましたが、大塚家具は、“店舗ではなくショールーム。特定の人にここで商品を見てもらって、通信販売のように後で電話などで購入の契約をしてもらう”ということで、この規制をクリアし、巨大な面積の“ショールーム”、つまりは店を増やしていったと考えられています。

 そこにたどり着く前にも画期的な取り組みをしていて、それは1978年に開店した東京の1号店でした。3階建てで延べ3400坪の板橋のボーリング場を借りて、店にしたんです。家の中や工房に構えたこじんまりした店が当時の家具店でしたから、業界の度肝を抜く規模でした。その後も役所が持て余している施設を借りて出店するなど、コンセプトはまるでインテリアのテーマパークでした。

 都心や地方都市を中心に店舗を増やし、現在はアウトレットやセレクトショップを除くと全国に13店構え、そのうち5000平方メートルを下回るのはたったの3店舗。有明本社ショールームは2万4600平方メートルと日本最大級の規模を誇ります。圧倒的な広さに加え、質の高いものにストーリーをつけて売るスタイルも成長を支えてきた一因です。例えば「これはマリリンモンローが使っていたベッドと同じ型のベッドですよ」という売り文句で販売するとか。消費者を惹きつける付加価値を付けることにも長けています。

 一方、ニトリは大手競合店に隣に出店され、1972年に倒産の危機に陥りました。でも、翌年にアメリカの家具業界の視察をしたことで、危機を脱しました。当時の日本の家具店は、たんすなどの箱もの家具を扱っていましたが、アメリカではベッドやクローゼットなどを扱い、そこにはカーテンやクッションなどがコーディネートされていました。しかも、日本の三分の一の価格で売られていて、非常にショックを受けたそうです。

 今ではニトリは“ホームファッション”といって、生活する住空間をコーディネートして提案していますが、その元となったのがこのアメリカ視察だったんです。“生活の豊かさを日本にも”という気持ちで日本に戻ってきたと以前、似鳥氏は言っていました。

――ニトリが扱う商品を広げたことで、客層も変わったのでしょうか?

長島:当時の家具店は、お客さんが来るのは土日が中心でした。その点、生活雑貨を取り入れることで平日も賑わうようになったんです。大規模店として“ホームファッション”を取り入れたのはニトリが日本初でした。

――新しい売り方を見つけたニトリですが、安く売るのは容易だったのでしょうか?

長島:最初は倒産品などを集めて売っていたのですが、商品をだまし取られたりトラブルが続き、手を引いたんです。そこで始めたのが、メーカーから直接商品を買い取ること。当時は問屋がその地域の職人も束ねていたりと、圧倒的な力を持っていました。問屋を飛ばしてメーカーから買うことは業界ではご法度でした。それをばれないように取引していましたが、店をもっていた北海道でまずばれてしまい、最後は九州まで買い付けに行ったようです。

 その時に自分たちで配送もやっていたので、物流のノウハウも取り入れられたんです。ヨーカ堂の創業者なども師事していた経営コンサルタントの渥美俊一氏にアドバイスをもらったことも、ニトリが成長する大きな原動力となりました。その後は、コストを下げるために海外に自社工場をつくってメーカーとしても事業を広げていきました。

――お互いに独自の発展を遂げてきた大塚家具とニトリですが、最近の大塚家具騒動について、どう思われますか?

長島:大塚家具は経営権問題で杉の木に松を接ぎ木したようなもの。創業者である父・勝久氏が築き上げてきたものを、娘の久美子新社長が会員制をやめるなどして方向転換し、それで業績が上がらないから勝久氏が交代を命じた。つまり、接ぎ木を取ってはつけ、ということを繰り返していました。資本がしっかりしている会社なのですから、5年間でもいいからじっくり様子を見るべきでした。

 勝久氏の主張も、久美子新社長の主張も、それぞれ理解できます。でも、どちらかを選択するのではなく、久美子新社長が考える店づくりは新ブランドとして展開すれば良かったと思います。ニトリも家具は置かずに生活雑貨のみを売るデコホームをつくったり、銀座店を立ち上げたりもしました。銀座店は、これまでの店のスタイルは継続しつつ、デザイン性、素材にこだわったインテリアのコーディネートを提案するという新たなコンセプトを打ち出しています。今後、中価格帯の商品を増やして新たな客層をつかんで客単価を上げるための様子を見るという意味も込めているのでしょう。大塚家具もニトリも今後、動向を見守っていきたいですね。