2人乗り軽自動車オープンスポーツカー「S660」。

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■今注文しても納車は来年に

「これほど試乗希望者が多いと思いませんでした。特に土日は事前に予約をいただかないと、試乗することは難しくなっています。平日でも数時間待っていただくことがあります。こんなことは今まで経験したことがありません」

こう話すのは都内のホンダカーズ関係者だ。ホンダは4月2日、軽自動車のスポーツカー「S660」を発売、その試乗目当てに毎日多くのお客がやってくるそうだ。そして、見せてくれたスケジュール表には30分ごとに区切られたマス目にびっしりと試乗希望者の名前が書かれていた。そのため、クルマを見るのにも予約が必要な状態で、筆者が平日に訪れたときには「4時間後ならクルマをじっくり見ることができる」とのことだった。

ホンダの全販売店がそんな状況かというと、そうではない。実はS660は生産台数が1日40台と少ないため、一部の販売店にしか配車されていないのだ。それも1台だけ。そのため、S660がある販売店に試乗希望者が殺到し、クルマをなかなか見ることさえできなくなっているわけだ。

もちろん受注も好調だ。発売前の事前受注で3000台に達し、発売後はさらに加速しているそうで、「今注文しても、年内に納車するのは難しい状況で、お客様には来年になると説明しています」と前出のホンダカーズ関係者は話す。

その“S660効果”は置いていない販売店にも出ており、発売前よりは訪れるお客の数が増えているという。そして、店員の一人は「これからなんとか盛り返していきたい」と話し、ホンダらしいS660の出現に喜んでいた。

■ターゲットユーザーは「自分たち」

このS660にはさまざまなエピソードがあり、誕生までに異例の開発ステップを踏んだ。2010年、本田技術研究所の創立50周年を記念して「新商品提案企画」と実施。エンジニア立ちから寄せられた約400の提案の中から小さなスポーツカーがグランプリに輝いた。そのクルマの提案を行ったのが、入社4年目で26歳の椋本陵氏だった。

当初、製品化の予定はなかったが、11年に完成した試作車に伊東孝紳社長が試乗したところ、非常に気に入り、製品化が決まる。そして、開発責任者のLPL(ラージ・プロジェクト・リーダー)に提案者の椋本氏が抜擢され、ホンダで史上最年少となる開発責任者となった。もちろん、そのサポート役にベテラン技術者3人が据えられ、LPL代行として社内のさまざまな調整を担当した。

開発メンバーも、これまでほとんど行ってこなかった公募で選ぶことにした。すると150人ほどの手が上がり、その中から20代〜30代の若手を中心に15人が選ばれ、開発チームは発足した。

開発の進め方についても独特で、「ターゲットユーザーは自分たちということで、お客様の声や市場の動向など全く考えなかった」(椋本氏)そうだ。これまでのホンダはユーザーの声を多く聞き、それをできるだけ反映させるようなクルマづくりを行ってきた。その結果、装備は充実しているものの、尖ったところのないクルマになってしまったが、S660はそれとは180度違い、「自分たちが乗りたいクルマ」だけを考えてきたわけだ。

そのため、発売されるや否や、ほとんどの開発スタッフが販売店を訪れ注文したそうだ。「自分たちがつくったクルマを買って、みんなで集まって走ろうと考えているんですよ」とは椋本氏の弁だが、こんなことは最近のホンダ車には見られなかったことだ。

■ピンチの時ほど強さを発揮

現在、ホンダはピンチに立たされていると言ってもいい。主力車種「フィット」ハイブリッドの度重なるシステム不具合、タカタ製エアバッグ搭載車の大量リコール、販売不振による目標台数の下方修正、おまけに業績は同業他社が円安を背景に高収益を上げるなか、ホンダは完全に蚊帳の外。まさしく踏んだり蹴ったりといった状態が続いている。

ただ、ホンダの場合、ピンチの時ほど強さを発揮すると昔から言われてきた。1990年代前半も、ホンダは販売不振で業績が低迷し、当時好調だった三菱自動車に吸収合併されるのはないかと業界関係者の間で話題になったが、94年に「オデッセイ」を発売して一転した。それまでになかった新しい車ということで大ヒットし、ミニバンブームの火付け役になったほどだ。

また、2000年代終わりには、ホンダの軽自動車が存亡の危機にあったが、2011年に「N−BOX」を発売するや否や大ヒット。2012年度から2年連続で軽自動車販売台数のナンバーワンに輝いている。

このようにホンダは1つの車種をきっかけに大きく変わって来た歴史がある。日本本部長を務める峯川尚専務執行役員もS660について「ホンダのブランドイメージをつくるアイコンのようなモデル」と話しており、低迷する国内販売の起爆剤にしたい考えだ。販売店の様子を見ると、S660はその可能性を秘めていると言っていいかもしれない。

(ジャーナリスト 山田清志=文)