中国海軍のケイ広梅報道官は26日、中国軍事科学院との共催による日清戦争120年を記念するフォーラムを27、28両日に開催すると発表した。海軍はさらに、同戦争による戦死者の慰霊祭を海上で実施するという。中国新聞社が報じた。(「ケイ」は「形」のつくり部分がおおざと)

 ケイ報道官は日清戦争を「中国の発展の進捗を断ち切り、民族の苦難を増加させたが、民族がめざめることを促した」と表現。現在の中国については「海上の安全問題が複雑になりつつあるが、海洋強国を建設し、中華民族の偉大な復興の時期の重要な時期」と説明。

 日清戦争を振り返る意義について「国辱・軍の恥を骨身に刻み、国のために犠牲となった北洋海軍の将兵の慰霊を行い、悲惨な歴史の教訓を反省することは、中国海軍を建設し発展させるため」と述べた。

 開催するフォーラムでは軍内外の指導者、専門家、学者が日清戦争の背景、国家意思の決定、海陸での戦闘における問題点や、戦争に失敗した原因や教訓について討論する。

 海軍は山東省威海の近くの海上で、日清戦争の戦死者に対する慰霊祭を実施するという。

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◆解説◆
 清国北洋艦隊は威海衛を本拠地としていた。日清戦争では、黄海海戦で艦隊を撃破した日本が、陸海軍共同作戦として1895年1月20日から2月21日にかけて威海衛を攻撃。北洋艦隊は定遠など主力艦が健在で、猛烈な反撃を続けたが、日本海軍の小型水雷艇が威海衛湾内に突入し、水雷攻撃で定遠などを大破させるなどで、北洋艦隊を撃破した。

 北洋艦隊司令官の丁汝昌は自決し、同艦隊は降伏。残っていた艦船はすべて、日本が鹵獲(ろかく)することになった。丁汝昌の遺体は当初、ジャンク船で後送されることになったが、日本海軍は鹵獲した貨物船1隻を北洋艦隊側に返還し、丁汝昌の遺体と北洋艦隊兵員の帰還を認めた。日本海軍が最高の儀礼をもって亡くなった丁汝昌を扱ったことは、当時の世界的常識としては考えられないことだったという。

 当時の日本海軍連合艦隊司令官は伊東祐亨。伊東は元薩摩藩士。薩摩では、敵の勇者を尊敬する気風が、とりわけ強かったという。

 日清戦争の発端は、朝鮮の宗主国であった清国が、朝鮮支配を強化しようとしたのに対し、朝鮮を清国から切り放し、自らの勢力圏に置こうとした日本の利害が対立したことだった。仮に、日清戦争が起こらなかった、あるいは清国が勝利していた場合、現在の韓国/北朝鮮は、中国の少数民族自治区のような存在になっていた可能性が高い。

 中国が日清戦争の原因について“きちんと言明”すると、韓国や北朝鮮の反発を招く可能性がある。

 中国は従来、マルクス・レーニン主義の歴史観にもとづき、清朝を「残虐な支配で人民を抑圧し、搾取していた」、「腐敗などの矛盾も深刻化し、欧米、日本など列強による中国の半植民地化を招いた」などと批判し、辛亥革命による滅亡を「歴史の進歩」としていた。しかし1990年代ごろから、清国という存在を肯定的に扱うことが増えた。ただし、チベットの歴史的政権については「奴隷制により人民を残虐に支配」などと厳しく批判しつづけている。

 中国は「魚釣島(尖閣諸島の中国側通称)は、日清戦争の結果、日本が中国から奪った」と主張している。日清戦争に関連するフォーラムでは、尖閣諸島の問題についての発言がある可能性がある。(編集担当:如月隼人)