婚姻は両性の妥協のみに基づいて成立する/純丘曜彰 教授博士
/中学生でもあるまいに、合意だ、権利だ、協力だ、などというきれいごとを家庭内で並べ立てても、無理。いっそ、結婚で妥協・義務・我慢は当然、としてこそ、すばらしいパートナーと幸せに暮らせる可能性も現実に開けるのではないのか。/
日本国憲法第24条「婚姻は、両性の妥協のみに基づいて成立し、夫婦が同等の義務を有することを基本として、相互の我慢により、維持されなければならない。」と、まあ、改憲論が喧しい昨今、少子化が悩ましい現代、ついでにかように改憲すべきだと思う。
現行憲法のように、「両性の合意のみに基づいて成立している」婚姻だからダメなのではないか。本人たちの合意しか基づいていないせいで、どちらか一方が、やーめた、と言っただけで、かんたんに合意が崩れ、すぐに離婚。しかし、婚姻となれば、子供もいるし、親兄弟、親戚や友人、知人、町内、自治体まで巻き込んだ話ではないか。本人たちだけで、文字通り好き勝手にくっついたり離れたりされたのでは、周囲が迷惑。むしろ、いろいろあるにしても、周囲から見て、そんなものじゃないのか、という程度の相手と、そんなものかな、という妥協でくっつくなら、もっと多くくっつけるものではないのか。
まして、「夫婦が同等の権利を有する」って、なんだ? 家の中で権利だ、権利だ、などと言ったところで、家を差配しているのが自分たちなのだから、いったい誰に対して権利を要求する気なのか。家の中に入り込む権利があるとすれば、せいぜい子供の側、自治体の側だけ。飯喰わせろ、おもちゃ買え、税金払え、ゴミは分別して出せ、等々。当人たちにおいて、自分たちの家を自分たちで守りたければ、家の中にあるのは義務だけだ。なんとかして収入を得る義務、とにもかくにも掃除や洗濯で家の中を片付ける義務、なにより子供たちを喰わせ学ばせ育てる義務。家庭生活は、毎日が義務だらけ。
そして、我慢。夫婦の原理原則だの世間一般だのを持ち出して、旦那なんだから、主婦なんだから、と、相手をあげつらえば、キリが無い。まったく、あいつ、協力する気が無いんだから、なんて、ネチネチと言ってみたところで、そんなことを言ってやってくれるくらいなら、とっくにやってくれている。しょせんは、おたがい、割れ鍋に綴じ蓋。自分も自分なのだし、まあ、そんな人なんだ、と割り切ってこそ、そんな人だけど、でも、と、相手の良いところも見えてくる(かもしれない)。
戦後、旧来の高圧支配的な「家」の制度を否定したまではよかったが、それに代わるものが、現行憲法のような熱烈恋愛絶対主義の幻想では、日本の家庭はもたなかった。日本人は、フランス人のような、熱烈恋愛を生涯に維持し続けられるような生活心情を持ち合わせていないし、フランス人ですら、そんなことは現実にはうまくいっていない。おぼこい中学生の夢の妄想でもあるまいに、「合意」だの「権利」だの「協力」だの、結婚にそんなきれいごとばかり並べ立てても、そんなものが現実にあるわけがない。だから、結婚しない、できない、それで、結婚の理想妄想だけがさらに膨らむ、という悪循環。
「妥協」「義務」「我慢」こそ、結婚の本質。それは、さまざまな言及を見ても、古代からまったく変わらない。だが、それでも人間は古代から結婚してきた。一回限りの人生、長い一生において、たった一人で孤独を堪え忍びながら歯を食いしばり、苦難に立ち向かうのは、あまりに辛い。そこに信頼できるつれあいがいれば、どれだけ心強いことか。
もちろん結婚で不幸になることもある。だが、ひとりで一生を終えるより、はるかに幸せになれる可能性もある。とりあえず、中学生並みの熱烈恋愛の結婚妄想は捨て、おおいに「妥協」してみてはどうか。絵に描いたような権利や協力はともかく、すばらしいパートナーに出会い、その人と一度限りの貴重な人生をいっしょに楽しく暮らしていける幸運は、ほんとうに現実にあるものなのだから。
by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)
日本国憲法第24条「婚姻は、両性の妥協のみに基づいて成立し、夫婦が同等の義務を有することを基本として、相互の我慢により、維持されなければならない。」と、まあ、改憲論が喧しい昨今、少子化が悩ましい現代、ついでにかように改憲すべきだと思う。
まして、「夫婦が同等の権利を有する」って、なんだ? 家の中で権利だ、権利だ、などと言ったところで、家を差配しているのが自分たちなのだから、いったい誰に対して権利を要求する気なのか。家の中に入り込む権利があるとすれば、せいぜい子供の側、自治体の側だけ。飯喰わせろ、おもちゃ買え、税金払え、ゴミは分別して出せ、等々。当人たちにおいて、自分たちの家を自分たちで守りたければ、家の中にあるのは義務だけだ。なんとかして収入を得る義務、とにもかくにも掃除や洗濯で家の中を片付ける義務、なにより子供たちを喰わせ学ばせ育てる義務。家庭生活は、毎日が義務だらけ。
そして、我慢。夫婦の原理原則だの世間一般だのを持ち出して、旦那なんだから、主婦なんだから、と、相手をあげつらえば、キリが無い。まったく、あいつ、協力する気が無いんだから、なんて、ネチネチと言ってみたところで、そんなことを言ってやってくれるくらいなら、とっくにやってくれている。しょせんは、おたがい、割れ鍋に綴じ蓋。自分も自分なのだし、まあ、そんな人なんだ、と割り切ってこそ、そんな人だけど、でも、と、相手の良いところも見えてくる(かもしれない)。
戦後、旧来の高圧支配的な「家」の制度を否定したまではよかったが、それに代わるものが、現行憲法のような熱烈恋愛絶対主義の幻想では、日本の家庭はもたなかった。日本人は、フランス人のような、熱烈恋愛を生涯に維持し続けられるような生活心情を持ち合わせていないし、フランス人ですら、そんなことは現実にはうまくいっていない。おぼこい中学生の夢の妄想でもあるまいに、「合意」だの「権利」だの「協力」だの、結婚にそんなきれいごとばかり並べ立てても、そんなものが現実にあるわけがない。だから、結婚しない、できない、それで、結婚の理想妄想だけがさらに膨らむ、という悪循環。
「妥協」「義務」「我慢」こそ、結婚の本質。それは、さまざまな言及を見ても、古代からまったく変わらない。だが、それでも人間は古代から結婚してきた。一回限りの人生、長い一生において、たった一人で孤独を堪え忍びながら歯を食いしばり、苦難に立ち向かうのは、あまりに辛い。そこに信頼できるつれあいがいれば、どれだけ心強いことか。
もちろん結婚で不幸になることもある。だが、ひとりで一生を終えるより、はるかに幸せになれる可能性もある。とりあえず、中学生並みの熱烈恋愛の結婚妄想は捨て、おおいに「妥協」してみてはどうか。絵に描いたような権利や協力はともかく、すばらしいパートナーに出会い、その人と一度限りの貴重な人生をいっしょに楽しく暮らしていける幸運は、ほんとうに現実にあるものなのだから。
by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)