“脱北女子大生”が明かす、故郷・北朝鮮、中国での潜伏生活、そして日本の生活で感じたこととは……?

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日本入りした脱北者として初めて大学に進学したリ・ハナさん(仮名)が、2005年に来日してからの奮闘の日々や、脱北の経緯、中国での潜伏生活などをつづった手記を出版し、話題を呼んでいる。「現在、日本で暮らす約300人の脱北者のことを理解してもらうきっかけになれば」と願う彼女の口から語られる言葉とは?

■「日本に着いてもまだ不安でした」

「関西空港に降り立ったとき、まだ疑心暗鬼でした。ダマされているのではないか? ここは日本などでなく、別の国ではないのか? 長い潜伏生活で、すっかり人を信じられなくなっていたのです。そんな私を見かねたのでしょう。飛行機内では同行してくれた方が私の緊張を解こうと、これから暮らすことになる日本について説明してくれたのですが、まったく頭に入りませんでした。

心から安心できたのは、出迎えの支援者から『ここは日本だよ。もう怖がらなくていいんだよ』と、声をかけられたときでした。脱北以来、肌身離さず隠し持ってきた自殺用のカミソリも、その後、やっと捨てることができました」

リ・ハナ(仮名)、30歳。北朝鮮新義州市生まれ。長崎生まれの在日コリアンを父に持つ。父は家族とともに1970年代後半、北朝鮮へ帰国。現地で結婚し、やがて、彼女が生まれる。一緒に帰国した祖父母が日本から一定の財産を持ち帰ったこともあって、一家は裕福な暮らしを送っていた。自宅には北朝鮮では珍しいマイカーもあり、それは彼女にとっても自慢のタネだった。

そんな一家に突然、異変が生じたのは90年代後半、彼女が10代半ばのことだった。

「ある日、暗い表情で帰宅した母がこう告げたんです。『親戚の不始末に連座して、私たちも農村に追放されることになった』と。北朝鮮は移動の自由がなく、罪人のレッテルを貼られて農村の戸籍に転籍すると、二度と都市部に戻ることはできません。母によると、最も過酷な僻地(へきち)に追放され、自給自足の生活を強いられるだろうとのことでした。それは食料事情の悪い北朝鮮では死を意味します。そのため、新義州市内の知人の家などを転々として、隠れて暮らすことにしました。ただ、都市戸籍を取り戻すために行政機関や(朝鮮労働)党の幹部などにワイロも含めて働きかけているうちに、蓄えがすっかり尽きてしまい、万策尽き果ててしまったんです」

そして、母が下した結論が決死の脱北だった。

「11月末の寒い夜でした。中朝国境を流れる鴨緑江に浮かぶ島へ渡り、そこから中国へと逃げました。国境警備兵に見つからないよう、歩哨(ほしょう)が一番遠ざかっているところを母と弟と3人、渡河しました。引き潮なので水深は浅いのですが、ヒザ近くまで泥に埋まってしまう上に、寒さでその泥が凍っている。足を抜くたびに氷が肌を刺して痛みました。でも、警備兵に見つかったら射殺です。夢中で30〜40分走り続け、対岸の中国にたどり着きました」

その後、一家3人は中国・遼寧省の丹東市を経て、さらにそこからバスで7時間ほどの瀋陽市に到着。以来、5年間の潜伏生活を過ごす。

「いつ公安警察に逮捕されるか、毎日おびえていました。中国語ができないので、現地の人と接触すると脱北者とバレてしまう。だから、仕事も食堂の皿洗いばかり。厨房に引っ込んでいれば、接客しないで済みますから。ただ、そうやって無口を装っていると、本当に言葉が出なくなり、一時的に失語症になってしまったこともありました。

一度だけ公安警察の一斉摘発で捕まったことがあります。取り調べの列に並んでいる間、もし北朝鮮に送還されることになるなら、この場で自殺しようとポケットのカミソリをじっと握りしめていました。

ただ、幸いなことに無罪放免となりました。取り調べでは13ケタの住民番号や家族関係などが記入された身分証明書を提示するのですが、私は万一に備えて実在する同年代の朝鮮族女性のデータを丸暗記していました。身分証明書は自宅に置いていると言い張り、記憶していたデータを復唱すると、公安官はそれで納得したのか、そのまま釈放してくれたんです」

九死に一生を得た彼女は中国での潜伏生活に限界を感じ、中国戸籍の入手に動く。戸籍売買の相場は1万5000元ほど。当時の彼女の月収は700元。2年近く飲まず食わずでお金をため、知人の朝鮮族男性に虎の子の1万5000元を渡した。しかし、その男性が再び彼女の前に姿を現すことはなかった。

「サギでした。でも、脱北者の身では警察に訴え出ることもできず、泣き寝入りしました。そんなときです。日本の支援者と巡り合えたのは。その人は私の祖母や父が日本で暮らしていたのなら、日本に入国することも可能だと教えてくださったんです。すっかり絶望していたときだけに、たとえ、またサギ話でも構わない。ほかに生きる道はないと考え、日本行きの話に賭けてみることにしたのです」

こうして2005年、ハナは関西国際空港へ降り立った。

■「もうすぐ卒業ですが、まだ就活中です」

その後、夜間中学に通いながら、高卒資格認定試験(大検)に合格。07年にUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の推薦を受け、関西学院大学へと入学した。韓国を経由せず、直接日本に入国した脱北者約300人の中で、初の大学進学者だった。

「日本の生活で一番ビックリしたのは、誰もが政治家の悪口を自由にしゃべっていること(笑)。首相が1年くらいでコロコロと代わることも驚きました。北朝鮮では永久執権が当然ですから。そうそう、初めてコスプレを見たときも衝撃でした(笑)。でも、政治家の悪口にしても、コスプレにしても、みんなが自由に行動し、論議し、そしてひとつの社会をつくり上げていく。それってすごいことですよね。北朝鮮ではあり得ないことで、これが民主主義というものかと考えさせられました」

しかし、彼女は日本社会を自由でいいなと思う一方で、自分の前に立ちふさがる壁も感じている。

「脱北者という存在を説明することがとても難しい。核開発や拉致など、北朝鮮のイメージは最悪ですよね。そのため、脱北者も悪い人のように思われる。危険な国からやって来た危険な存在というイメージなんです。だから、大学でも私が脱北者ということはごく少数の人にしか明かしていません」

13年1月、彼女は自分のブログをまとめた単行本を上梓(じょうし)した。

「ブログは自分探しのつもりで書き始めたんです。私っていったい何人(なにじん)なんだろ、何者なんだろうと。

それでたどり着いた結論が何人でもない。私は北朝鮮、韓国、中国、そして、日本のいずれの部分も併せ持っているけど、そのいずれのカテゴリーにも当てはまらない存在だって。無理に国家のカテゴリーに当てはめようとするから悩み、苦しくなってしまう。北朝鮮で18年、中国で5年間、日本で8年生きた30年近い体験のすべてをひっくるめて私なんです。

本を出版することで、脱北者だと知れてしまうことに今でも恐れがあります。でも、この本を通じて少しでも脱北者への理解が深まればいいなと願っています。この3月に大学を卒業しますが、まだ就活中です。脱北者だけでなく、ほかの在日外国人やマイノリティのために役立つ仕事に就ければと思っています」

(取材・文/姜 誠 撮影/ヤナガワゴーッ!)

●リ・ハナ(仮名)

1980年代前半、北朝鮮北西部の新義州市で生まれる。18歳のときに母、弟とともに脱北。中国で5年間過ごした後、2005年に来日した。その後はアルバイトをしながら日本語を勉強。大検を取得し、09年に関西学院大学に入学。この3月に卒業予定。大阪府在住

■『日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩』

(アジアプレス出版部・1365円)