ギャンブル依存症の父と崩壊した家庭環境、そして双子の兄との別れ--。裕福だった実家の資産を浪費され、地獄のような幼少期を過ごした佐藤智明氏。

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 極道の世界へと入り、相次ぐ悲劇から覚せい剤中毒になるも、そこから劇的な立ち直りを遂げた。NPO法人代表として「生き直し」の道を歩む著者の壮絶な半生を綴った新刊『先生は、元極道 元極道講師が子どもたちのために歩む 人生「生き直し」物語』(彩図社)より、苛烈を極めた幼少期の記憶を一部抜粋して届ける。(全3回の1回目)


写真はイメージ ©getty

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僕の生い立ち

 僕は1968年2月14日、千葉県松戸市に生まれました。一緒に住んでいたのは、父方の祖父母、僕の両親、姉と兄です。

 僕はもともと双子で、兄とは別の双子の兄もいましたが、祖父が「双子は縁起が悪い」といったらしく、双子の兄は生後間もなく養子に出されました。

 実家は昔、お茶の栽培をしていて、広大な土地を持っていました。祖父はそこにマンションをいくつも建てて、喫茶店やお肉屋さんも経営していました。いま思えば、かなりの資産家だったんだろうと思います。

 祖父は優しい人で、僕のことをとてもかわいがってくれました。一緒に遊んでもらった記憶もたくさんあります。でも、僕には父との思い出がほとんどありません。公園で一緒に遊んだり、夏にはプールや海に行ったり……、そういう当たり前の記憶が僕には一切ないのです。

 僕の記憶にある父は、いつもお酒を飲んでいて、不機嫌で、気に入らないことがあると母に暴力を振るう……そういう人間でした。暴力団の人達を引きつれて競輪場に行っていたこととか……我が子と遊ぶより、父自身が好き放題遊んでいたと思います。

ギャンブル狂の父

 父は祖父の持っている喫茶店を任されていました。いわゆる雇われオーナーです。

 でも、まともに商売はしていませんでした。父は小さなころから悪ガキで、中学時代の親友が暴力団の幹部になっていたらしく、喫茶店はガラの悪い人たちのたまり場になっていました。

 父は重度のギャンブル依存症でした。いつも悪い連中と連れ立って競輪場などに行っており、自分のお金が無くなると、祖父に無断でマンションを売ってお金を作っていました。そのお金で取り巻き連中を連れ、タクシーで関東中の競輪場を渡り歩いていたそうです。

 ある日、祖父は自分で建てたマンションの草むしりをしていました。すると、通りかかった人から「ここはもう、佐藤さんのマンションじゃないんだから、草むしりなんて止めた方がいいですよ」と言われたそうです。

 そこで祖父は初めて、自分のマンションが売られていたことに気がつきました。父を激しく叱りましたが、後の祭りでした。そのときには、すでに大部分のマンションが父によって売られていたからです。

 残ったのは、当時、個人の住宅では珍しい、鉄筋コンクリートでできた三階建ての自宅だけでした。その一階が喫茶店だったのです。

 そしてこの自宅も、父のギャンブルのせいで手放すことになります。

 僕はまだ幼かったのではっきりした記憶はありませんが、自宅を離れてアパートに引っ越しをしました。

 一家の家計は、母がホステスをして支えていたと思います。父は昼間からお酒を浴びるほど飲んで、母の帰りが遅いと暴れて母に暴力を振るいました。幼い僕にとって、その光景を見るのは地獄の苦しみでした。

あごを縫うケガをしても父は怒るばかり

 そのころの僕は、幼稚園の通園バスの乗り場までひとりで行き帰りしていました。

 ある日、僕は幼稚園のバス停からいつもの様に遊びながら帰る途中、ひとりで小さな神社に立ち寄りました。そのとき、境内に通じる坂道で転んでしまい、あごを打ってしまいました。

 血だらけになって泣いていたら、お坊さんらしき人が来てくれました。あごにタオルを巻いてくれ、自宅に送ってもらい、病院であごを縫ってもらいました。その間、父は心配するどころか、ずっと怒っていたのが記憶に残っています。

 そんな日々が続き、父の暴力に耐えきれなくなった母は、僕をおいてアパートを出て行ってしまいました。

 その後は、他のアパートに引っ越しました。父は相変わらず働かなかったので、おそらくは生活保護を受けて生活していたんだろうと思います。

〈「他に道はなかった」食べ盛りの小学5年生を“万引き常習犯”に変えた「クラス担任のひどい言葉」「父のアルコール依存症」〉へ続く

(佐藤 智明/Webオリジナル(外部転載))