外国人記者の見たニッポン…週刊新潮の“異色”コラム「東京情報」の制作秘話 謎に満ちた筆者「ヤン・デンマン氏」の正体とは
週刊新潮で長く人気があった連載コラムに、《東京情報》があった。書き手は、S・P・I特派員と称する、ヤン・デンマン氏。
【写真を見る】週刊誌の歴史に残る名物コラム「東京情報」のきわどい内容
1960(昭和35)年12月12日号から連載がはじまり、1997(平成9)年4月、1850回で終了した。その後、2013(平成25)年1月に再開し、2018(平成30)年4月に262回で終了。途中の中断時期を含めて足かけ「58年間」(正味「44年間」)、総計「2112回」におよぶ長期連載であった。
内容は、外国人であるヤン・デンマン氏の視点で、日本の政治、経済、世相、風俗を、皮肉たっぷりに論じるもの。しばしば、先進国(アメリカ、イギリス、フランスなど)の特派員記者が会話に加わる。外国人記者クラブにおける雑談風景を描写したようなコラムである。

いったい、この「ヤン・デンマン」とは何者なのだろうか。そして、58年間にもおよぶ連載は、どのようにしてつづいてきたのであろうか。
当初は「4ページ」の長編レポートだった
その前に--この《東京情報》、開始当初は、後年のスタイルとは、かなりちがっていた。まず、文字分量が圧倒的に多かった。
後年は見開き2ページで、文字分量はおおむね3000字前後。400字詰め原稿用紙換算で、7~8枚である。挿絵も1点だ。
ところが連載開始時は、計4ページもあった。約7000字前後、17~18枚である。挿絵も2点で、当初の絵師は、のちに日本漫画家協会を設立し、理事長や会長をつとめる漫画家の小島功氏(1928~2015)。毎回、艶っぽいしゃれたイラストを寄せていた。
その内容といえば、当初は、東京に赴任したばかりのデンマン氏の、世相風俗レポートの様相が強い。特に第1回は、いろんな意味で、長く“伝説”のように語られてきた。タイトルは〈日本女性のタテとヨコの物語〉。令和のいまとなっては、とても表に出せない、いまふうにいえば“トンデモ・レポート”なのだが、ギリギリ、ご紹介すると……
〈その男は、「おれは、日本へいってマッカーサーの世話をやいたという中尉から聞いたんだ」といった。/その男の話によれば、日本の女は、世界的珍種だという。なぜなら、われわれの知っているアメリカの女は、縦についているが、日本の女だけは、横についているというのだ。〉
母国(アメリカ?)で、こんな噂を聞いて日本女性に興味をもっていたデンマン氏は、
〈さて、まったく幸運にも、わたしハネダへ着いたのである。わたしの脳髄に焼きついている好奇心は、日本の総選挙で保守党が大多数の議席を得たということよりも、もっと人間的な基本的構造の変種へしがみついて、はなれなかった。/わたしは、思いがけない社命で、日本へきたからには、まずこれをたしかめるべきだと考えたのだ。〉
(当時、60年安保改定の激しい反対闘争があったにもかかわらず、1960年総選挙で自民党が圧勝していた。またハネダ(羽田)は、当時の国際空港で、日本の玄関であった)
かくしてデンマン氏は、先に東京支局に赴任していたN氏の案内で、さる大型キャバレーに行き、ホステスのアルバイトをしている大学生ミチコを紹介され……あとは紹介するにはおよばない。デンマン氏いわく〈日本の女性は、やはりアメリカの女性と変わりはないのだ。わたしは、見事にだまされた。〉。
要するに、この当時、日本がいかに海外から誤解されているかをレポートしているのだが、それにしても……という内容だ。ちなみにこの項の章題は、のちに単行本化された際、さすがに〈東京よこんばんは〉という、無難な題に変わっている。
「デンマン氏の脳ミソは複数でできあがっている」
ところで、そんな“好奇心旺盛”なヤン・デンマン氏だが、いったい、どんな人物なのだろうか。
後年、多くのメディアで“正体探し”が行われ、「ヤン・デンマンなど実在しない」「ニセ外国人」などと書かれた。あるときなど、具体的なライターの名前までが報じられたこともある。
だがそんなことは当たり前で、そもそも最初の単行本(1962年12月、大泉書店刊)のあとがきに、週刊新潮編集部名で、こう書かれているのだ。
〈種をあかせば、このデンマン氏の脳ミソは複数の人のそれでできあがっている。そして、連載が二年余にわたっている関係上、この脳ミソの種類は何度も入れかわることになった。こうして、一冊の本になってみると、デンマン氏の性格が時によって変化している所が目につくのは、こうした訳からなのである。〉
事実上、ヤン・デンマンなる個人など存在しないと、早々に編集部が“宣言”しているのである
1980年代に《東京情報》の連載を担当したA氏(68歳)が語る。
「《東京情報》は、編集部員や外部評論家など、さまざまな人が書き継いできました。わたしが担当していたころは、1人の外部ライターがまとめ役で、そのほか、3~4人のブレーンがいました。すべて、当時のメディア界では誰もが知る、著名な評論家やジャーナリストです。全員が海外生活の経験のある方々でした」
そのブレーンたちのコメントが、文中に登場するアメリカ、イギリス、フランスなど外国人記者の会話に発展するのだった。
「金曜日の会議でその週のテーマが決まると、急いで取材し、資料を集めて、ライターとブレーン諸氏に伝えます。日曜夕方までに電話でブレーンからコメントを聴き取り、夜7時ころにライターが社に来たら、取材結果を伝えて記事構成を組み立てます。構成が決まったらその場で執筆に入ってもらい、深夜12時か1時くらいまでに書き上げてもらいます。その後、わたしのほうで原稿を整理し、明け方に印刷所入稿。月曜午後にゲラが出て、校閲や修正を経て校了--これが毎週の流れでした」
当時は、インターネットもファクスもない時代だ。
「いまのようにパソコンもありませんから、原稿はすべて手書きです。それだけに、途中で文章の入れ替えや、大幅書き直しなどをしていると、時間と手間を喰ってしまいます。そのため、事前の構成組み立てに、とても神経を使いました。ブレーンのなかには、外国人の視点でテーマを語るために、わざわざ知り合いの外国人に取材してくださる方もいました」
テーマは、毎週、編集部側からも提案するが、大半は、“新潮社の陰の天皇”などと呼ばれた担当重役・齋藤十一氏(1914~2000)から下りてくることが大半だった。
「あるとき、どこだかの金融機関の宣伝広告の文案がいかに下品かを、デンマン氏の視点で語る--とのテーマが下りてきました。ところが、その広告が、どこの金融機関のもので、どこで見たのか、齋藤さんは忘れてしまったというのです。必死で探したのですが、どうにも見つからない。結局、執筆直前に判明したのは、ある金融機関が、横須賀線のグリーン車内だけに掲出していたポスターでした。齋藤さんは鎌倉在住だったので、横須賀線を利用していたのです」
結局このテーマは、ワイド特集に“移籍”したそうだが、このように特定の企業をターゲットにすることも多かった。
「景気のよい時代でしたから、毎週、大企業からの広告が多く入っていました。ヤン・デンマン氏がそれら大企業について語ると、皮肉で厳しい筆致になると決まっています。そこで当の企業には、その週だけ、広告は下りてもらっていました。批判する企業の広告が平然と載っているというのも変ですから。そのたびに広告部員は苦労していました」
東京・中野に住んでいた、デンマンさん
ところで、先ほどから、ヤン・デンマン氏が架空の人物であるとの前提で述べてきたが、実は彼は、実在の人物ともいえるのである。
そもそも《東京情報》の発案者は、上述の齋藤十一氏だが、若いころから、たいへんなクラシック・レコードのマニアでもあった。戦前はSP盤で聴いていたが、戦後、収録時間の長いLPレコードが登場すると、齋藤氏はLP蒐集に励むようになった。
齋藤氏の没後に刊行された追悼文集『編集者 齋藤十一』(齋藤美和編、冬花社刊、2006)のなかで、美和夫人が、「音楽のある生活」と題するインタビューで、こう述べている。
〈当時、レコードコレクションの充実ぶりを示す一番の指標は、希少な海外盤をいち早く入手しているかどうかにありました。でも、輸入盤の取り寄せとなると何カ月もかかります。〉
終戦直後の1945年11月、齋藤氏は、文芸誌「新潮」の編集長に就任していた。LPレコードの新譜は、海外に行く知人に買ってきてもらっていたが、
〈それでも不十分で、齋藤は、占領軍のパイロットで、東京・中野に住んでいたアメリカ人将校と親しくなり、彼の将校としての特権を利用することで「安く早く大量に」レコードを仕入れるルートを確保しました。〉
その将校の家にレコードを受け取りに行く役目が、1950年に新潮社に入社し、「新潮」に配属された、のちの夫人、美和さんだった。
〈その将校さんの名前は、デンマンさんといいました。
後に齋藤が立ち上げた「週刊新潮」の名物コラムのひとつ、「東京情報」の匿名筆者の名前「ヤン・デンマン」は、この将校さんから拝借したものだったのです。〉
デンマンさん宅へのお使いをしているうちに、美和さんは、齋藤氏と結婚することになるのだった。
《東京情報》は、先述のように、途中の一時休載を経て、2018年4月、総計「2112回」目で最終回を迎えた。そのタイトルは〈さらば東京〉。
〈実は1カ月前、S・P・I本社に戻るよう連絡があった。栄転と言えば聞こえはいいが、これで私はジャーナリズムの現場から退くことになる。本連載も今回が最終回だ。(略)モノレールで羽田に向かう途中、あらためて東京の街並みを眺めた。〉
1960年12月に羽田空港に到着したデンマン氏だったが、2018年に、ふたたび羽田空港から旅立つ--〈かつて東京の玄関は成田空港しかなかったが、今では羽田で多くの国際便が発着している。〉。そして、こう結んでいる。
〈常に変化を続け、最先端を取り入れようとする東京という街は、たしかにエキサイティングで魅力的である。しかし、その一方で変化や変革、改革というものにあまりに楽観的な日本人の心性に不安を覚える西洋人は私も含めて少なくないだろう。(略)/日本人はそろそろ落ち着きを取り戻すべきではないか。/離陸した飛行機の窓から見えたのは、やはり「見えない国ニッポン」だった。〉
※コラム本文の引用は、主旨を変えない範囲で一部表記を改訂しています。
森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。
デイリー新潮編集部
