自民党憲法改正草案が映す国家の姿、「権力を制限する規範」ではなく「国民に義務を課す規範」に

自民党の憲法改正実現本部であいさつする中曽根弘文本部長=2026年7月、東京・永田町の党本部(写真:共同通信社)
自民党の「日本国憲法改正草案」は、2012年4月に決定され、同党の憲法改正論を理解する上で重要な基本文書です。国会の憲法審査会が議論しているのは、自民など5会派による骨子案ですが、もともと自民党が考えていた草案を読んでいくと、憲法の基本思想そのものに関わる多くの変更を念頭に置いていることがわかります。今回は、自民党の改憲草案について考え、連載の最終回としたいと思います。
憲法は誰を縛るものか?
まず、あらためて私の立場を明らかにしておきます。現状に合わない憲法を改革することは当然であるとの考えを持っています。ですから、自民党草案に反対する憲法学者や日弁連の主張に対しても、現状に合わないと思う点には疑問を差し挟んでいきます。
自民党草案と現在の日本国憲法との最も本質的な差異は「憲法は誰を縛るものか」という点にあると言えます。現行憲法は、立憲主義に基づき、憲法は国家権力を縛るためのものです。それは憲法尊重擁護義務を定めた第99条に表れています。
第九十九条
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
条文からわかる通り、その義務は、天皇・大臣・国会議員・公務員らに課され、国民は入っていません。
一方、自民党草案ではこうなっています。
第百二条
全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。
国民に対し新たに憲法尊重義務を課す一方、条文上「天皇」を義務の主体から外しています。
つまり、これは憲法を「権力を制限する規範」から「国民に義務を課す規範」へ転換しようとする考えを反映したものであり、近代立憲主義の根幹に関わる変更だと憲法学者からは批判が出ています。
私は、この憲法草案に近代民主主義社会がつかんだ果実を放棄する文言があることに驚きを隠せませんでした。
それはほかの条文にも映し出されています。
自民党草案に出てくる「公益及び公の秩序」とは
例えば、現行憲法の「公共の福祉」についてです。第12条・13条をみてみましょう。
第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
これが自民党草案では
第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
第十三条
全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。
となっています。
現行の「公共の福祉」が、自民党草案では「公益及び公の秩序」に置き換わっています。「公の秩序」という概念が出てきたことで、国家や社会の秩序を理由に人権を制限できる余地を広げることになります。
第13条では「個人として尊重」が「人として尊重」に変更されています。これは「個人主義」の否定とも受け取れる文言変更で、憲法の最高価値である「個人の尊厳」が後退しているようにみえます。
「緊急事態」宣言で、内閣が法律と同一効力の政令を制定
現行憲法第21条で保障する表現の自由についても制約が加わります。
自民党草案では同条に第2項として、「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」と追加しました。
表現・結社の自由に対する制限を明文化した条項であり、政府批判やデモ・市民運動が「公の秩序を害する」と認定されれば制約可能になり得ます。言論の自由も同様です。
私はメディアの人間なので、「言論の自由」と表現しますが、読者の皆さんにとっては「国民の知る権利」ということになります。これは民主主義の基盤ですから、その制限は影響が最も懸念される条項の一つです。
自民党草案に並んでいる文言は、国家や社会全体の利益を、個人の権利より先に立てることを可能にするものです。日弁連系の団体からは「天賦人権思想(人権は生まれながらに持つものという近代立憲主義の大前提)そのものを否定しかねない」という強い批判も出ています。単なる条文の言い換えではなく、近代立憲主義の根幹である「個人の権利が国家に先立つ」という発想そのものを組み替えようとしていると感じさせる内容だと言えます。
もともと憲法とは、王権から国民の人権を守るために制定されたのが歴史的経緯です。それは中学生、高校生の教科書にも書かれている常識です。
懸念はほかにもあります。緊急事態条項の新設(自民党草案の第98条・99条)です。内閣総理大臣が「緊急事態」を宣言すると、内閣が法律と同一の効力を持つ政令を制定できるようになります。これは国会が持つ立法権を内閣へ移譲することを意味します。
さらに次のように国民の服従義務を規定します。
「緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない」
災害大国日本に緊急事態条項は必要だが…
緊急事態の宣言には、事前または事後の国会承認は必要であるものの、権力分立の停止を可能にする仕組みであり、ワイマール憲法の大統領緊急令(ナチス台頭の法的経路)との類似が繰り返し指摘されています。
また、緊急事態の宣言下では「両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる」としています。選挙の先送り、つまり民主的正統性が空洞化するリスクがあります。
ただし、緊急事態条項の新設に対して私は全否定しているわけではありません。日弁連や野党は強く反対していますが、もう少し反対する理由について丁寧な説明が必要ではないかと考えます。
世界を見渡すと、OECD加盟国のほとんどが緊急事態条項を採用しています。緊急事態条項が必要になるのは戦争ばかりではありません。
たとえば、災害です。日本ではこの条項がないために、地震など大きな災害が発生した際、迅速に対応できないリスクが指摘されてきました。災害大国日本としては、戦争だけでなく、緊急事態条項は必要になる場合があるのです。
ですから、条項そのものに反対するよりも、そのチェック機能があるかどうかが大事だと考えます。
たとえば、フランスではドゴール政権が第五共和政憲法を制定した1958年に緊急事態条項が導入されました。背景には、アルジェリア戦争の混乱と、それに対応できなかった第四共和政の統治不能状態があります。
緊急事態条項への「チェック機能」は十分なのか
ただし、この条文には次のようなチェック機能が同時に組み込まれています。
・発動には憲法院(違憲審査機関)への意見聴取を義務化
・発動30日後に国民議会議長・元老院議長などが憲法院に継続の必要性について審査を要請できる
・60日経過後は憲法院が継続の必要性を審査する
実際にこの条文が使われたのは1961年のアルジェリア軍事クーデター未遂時の一度だけで、極めて限定的な運用にとどまっています。
ドイツの緊急事態憲法(1968年)は、20年間の激しい論争を経て成立しました。ドイツの基本法(憲法)も、制定当初の1949年は緊急事態条項を持たない憲法として作られました。
理由は明確です。ワイマール憲法48条(大統領の緊急命令権)がヒトラーによって濫用され、ナチス独裁への道を開いたという痛烈な歴史的教訓があったためです。実際、基本法制定過程の原案(ヘレンキームゼー草案111条)には緊急事態条項が含まれていましたが、この濫用の記憶から削除された経緯があります。
その後、西ドイツが主権を回復し、連合国が保有していた留保権限を返還してもらうために自前の緊急事態法制が必要になり、1968年、実に20年に及ぶ国会内外の激論を経てようやく緊急事態憲法が制定されました。この条文には、ワイマール憲法の反省から次のような厳格な制約が組み込まれています。
・内的緊張事態・防衛事態・自然災害をそれぞれ別の条文で厳密に定義し、一括りにしない
・連邦議会が招集不能な場合のみ「合同委員会」が代替機能を持つが、野党の議席比率を反映した構成が保障される
・個人の尊厳など一部の基本権は緊急事態でも制限できない
ドイツでは、「緊急事態条項を持つこと」自体を20年かけて慎重に検討し、濫用を防ぐ装置を先に固めてから導入したという経緯があります。
一方、自民党草案の緊急事態条項は、そこまで議論を重ねて検討したとは思えないうえ、フランスやドイツと比べ、チェック機能の設計に大きな違いがあることが分かります。
憲法改正で権威主義的国家を志向する国も
フランス・ドイツが「発動後に誰がどう歯止めをかけるか」を条文レベルで明記しているのに対し、自民党草案では、発動には「事前又は事後に国会の承認を得なければならない」「百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない」としていますが、歯止めが十分に練り込まれていません。
「OECD各国がほとんど緊急事態条項を認めている」というのは事実ですが、そこから導かれるべき点は「日本も同じ条文を持つべきだ」ということではなく、「他国がどれだけ苦労して歯止めを設計したか」を参考にすべきだという点です。
自民党草案は、権威主義的国家への道を開きかねないというのが私の懸念です。
先述したワイマール憲法下のドイツでは、1933年の全権委任法(授権法)によって、ナチス独裁が成立しました。これは厳密には「憲法改正」ではなく、ワイマール憲法の枠組みを維持したまま、議会がヒトラー政権に立法権を白紙委任する形をとりました。
憲法改正に必要な3分の2の特別多数決という手続きを踏んで成立させた点が特徴で、「手続き的には合法」でありながら、実質的に個人の自由・言論・結社の自由を根こそぎ奪う結果になりました。民主的な手続きを踏んでいるからといって、内容が個人の自由を守るとは限らないという歴史の警告です。
似たようなケースは21世紀に入ってからも起きています。ハンガリーではオルバン政権が2011年に新憲法(基本法)を制定しましたが、憲法裁判所の権限縮小、報道の自由に対する規制強化、家族の定義を伝統的な異性婚に限定する条項の導入などが行われました。
これは自民党草案との構造的な類似性が指摘できます。両者とも、「伝統的価値観」や「国家の秩序」を前面に出しながら、結果的に個人の自由や少数者の権利を後退させる方向に書き換えている点が共通しています。
「家族は、互いに助け合わなければならない」
ロシアでは2020年の国民投票により、プーチン大統領の任期制限リセットに加え、「伝統的な家族観の保護」「歴史認識の統制(ソ連の歴史的評価を貶める行為の禁止)」といった条項が新設されました。これも「国家が望ましいとする価値観」を憲法に書き込み、それに反する言論や生き方を憲法レベルで排除しようとする点で、自民党草案の発想と重なる部分があります。
自民党草案による改憲は、運用を誤ると、国家への過度な権力強化に結びつきかねないものなのです。
さらに自民党草案は家族のあり方にも影響を与えかねません。第24条では条項が加わっています。
「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」
この憲法案からは、夫婦別姓の発想は出てこないでしょう。また「両性の本質的平等」を基礎とする現行24条の個人主義的性格が弱められると批判されています。
このように疑問点はいくつも出てきますが、あと2点だけ簡単に指摘しておきます。
ひとつは、天皇の元首化・国旗国歌条項です。
第1条で天皇を「元首」と明記、第3条で国旗・国歌を規定し、「国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」としています。これは思想・良心の自由(19条)との緊張が指摘されます。
そして、最大の争点となる第9条の改正と国防軍の創設については、すでに多くの論点が提示され、自衛隊のあり方については以前の回でも検討しましたが、軍事法廷の設置が想定されています。
憲法改正には熟議が必要
自民党草案では、現在の第9条2項(戦力不保持・交戦権否認)を削除したうえで、「国防軍」の保持を明記し、国防軍に審判所(軍法会議に相当)を設置するとしています。現行憲法が禁じる特別裁判所に該当する可能性も指摘されているほか、集団的自衛権の行使に明文上の制約がなくなります。
憲法改正は自民党結党以来の党是ではありますが、現在の憲法改正論議は「戦後レジームからの脱却」を掲げてきた故・安倍晋三首相の遺産ともいえるもので、戦前回帰につながりかねない内容を含んでいます。このような改憲を高市首相や自民党議員は本気で考えているのでしょうか。国民は、彼らの言動を徹底的に監視し、そして、憲法改正には熟議が必要であることを繰り返し要求すべきだと考えます。
これで本連載は終了となりますが、高市政権が憲法改正を進めようとしている一方で、その憲法ができたきっかけとなる戦争、そして世界史上でも稀な惨敗を喫した戦争について、日本人の手できちんと検証し、問題点を明らかにする作業がなされていません。これは戦後80年を過ぎた日本の残念すぎる現実です。自分たちの手で検証する「新・東京裁判」をしない限り、今後も残念な未来が待っているのではないか。これが、昔からの私の疑問でした。
その検証はもちろん、国家的規模で行うべきイベントで、時間を要するものです。しかし、自民党が衆院で圧倒的多数の議席を得たことで、憲法改正が性急に進められる可能性がでてきました。
微力ながら、敗戦責任を考え、あの戦争を振り返り、他国の例を研究しようと、10回にわたって連載を続けてきました。書き足りない部分はたくさんありますが、これからの国民的議論で、未来の日本が決まります。読者のみなさま。ぜひ、自分なりの憲法観をもって、改憲(もちろん護憲も含めて)に臨んでいただきたいと思います。
筆者:木俣 正剛
