国民の意識と「天皇」統一の意外な関係…近代国家が重ねた地道な「努力」
なぜ日本人は、あのとき国家に動員されたのか?
キリスト教由来の人権概念を「天皇の下の平等」と読み替えたことがもたらした、破局的結末とその後ーー。
8月24日発売『天皇と人権』(講談社現代新書)著者の気鋭の神学者・森島豊さんが、日本固有の「病」をあぶり出します。
(※本記事は、森島豊『天皇と人権』の一部を抜粋・編集しています)
天皇号の確立とナショナリズムの進展
ところが、昭和期に入ると変化が現れました。
1936(昭和11)年2月24日批准の猥褻刊行物の流布を禁じる外交条約から、外交文書でも「皇帝」から「天皇」へと称号変更が行われました。この変更には、当時強まっていた国体明徴運動の影響がありました。
きっかけは「日本」という国名に関する問題でした。当初、国際的に国名はジャパンまたはジャポンと表記されていましたが、昭和に入ると「ニホン」または「ニッポン」に改正する運動が広まりました。
特に1933年、国際連盟が満州からの日本の撤退を決議し、日本は国際連盟から脱退しました。この時期には国号とともに元首の称号も問題視され、天皇号に統一する声が高まりました。国際的な孤立とナショナリズムが高まった時期であり、清国も滅亡していたことから、外務省は1936(昭和11)年3月20日に外交文書でも元首号を「天皇」に統一することを正式に発表しました。
天皇統一にいたった意外な背景
『世界大百科事典』(平凡社)は、日露戦争後まで「〈天皇〉という称号がもつ特殊性に対する認識は官民ともに希薄であった」(「天皇」)と指摘しています。そして、日本の君主が他の君主と異なる存在であるという主張は、近代国家の形成の中で意識的に強調されていったとされています。
「天皇」という称号の特殊性を意識した全国的な統一は、軍部の台頭によって徹底されていきました。ここで重要なのは、この動きが臣民教育を受けた国民の反応から強化されていった点です。
外交文書で天皇号が使用される1936年は、国民の側から広がっていた昭和初期の国体明徴運動や昭和維新運動が高揚していた時期と重なっています。実際に、外交文書における称号を「皇帝」から「天皇」へ変更することについて、当初、外務省は消極的でした。しかし、国体明徴運動が全国的に広がる中で、その変更を受け入れざるを得なくなりました。
すなわち、この称号の統一は上からの決定だけでなく、国民の側からの動きと結びつきながら進められたものだったのです。
国民の変化と想定外のうねり
当時の元老であった西園寺公望は、対外文書における称号が「皇帝」から「天皇」へ変更されたことを知らされておらず、その理由を秘書の原田熊雄に問いただしました。これに対して原田は、「『皇帝』という言葉は外来思想から由来しているというので、即ち所謂反動思想の故であり、今日の時勢の生んだ一つの問題である」と説明しています。
ここで注目すべきは、「反動思想」と見なされるようになったという点です。これは単なる政府の判断ではなく、当時の社会全体に広がっていた国体意識やナショナリズムの高まりを反映したものであったと考えられます(『西園寺公と政局 第五巻』23頁)。
大正末期から昭和初期にかけて、人々は自らの存在意義や権利の根拠を天皇に求めるようになり、天皇に基づく国民運動が盛んになりました。こうした動きは、政府が進めてきた臣民教育によって形成された土壌が育みました。
しかし、その上に形成された国民は、政府が想定していなかった形で運動を展開しました。人々は天皇に神聖な意味を見出すことで、自らの正義をそこに重ね合わせ、運動を一層強めていったのです。その結果、このような動きは過剰なまでに徹底され、五・一五事件や二・二六事件といった急進的な行動へとつながっていきました。
本記事の引用元『天皇と人権』では、日本社会の深層に存在し、戦前・戦後に連なって繰り返して現れる「思考の癖」=「日本固有の病」を、神学者の視点で鋭く読み解いていきます。
