現場となったビルには、現在も複数のテナントが入居している(弁護士JPニュース編集部)

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1974年8月30日午後0時45分、東京・丸の内のオフィス街は昼休みの最中だった。

地上10階・地下4階建ての「三菱重工東京本社ビル」正面玄関前で、猛烈な爆音が響き渡った。

爆風は同ビルの玄関付近を破壊し、窓ガラスを上層階まで吹き飛ばした。向かい側や周辺のビルでも窓ガラスが次々と割れ、無数の破片が路上へ降り注いだ。停車していた車両も破壊された。

路上やビルの内部では、爆風やガラス片を受けた人々が次々と倒れた。血を流して助けを求める人、負傷者を運び出そうとする人、突然の爆発に何が起きたのか分からず立ち尽くす人。白昼の丸の内は、一瞬にして阿鼻叫喚(あびきょうかん)の現場となった。

爆発によって8人が死亡し、約380人が重軽傷を負った。これが、戦後日本で発生した爆弾事件のなかでも最大級の被害を出した「三菱重工ビル爆破事件」である。

この事件で用いられた大型爆弾は、もともと別の目的のために製造されたものだった。その目的とは──天皇の暗殺だった。

地下ゲリラグループ・東アジア反日武装戦線「狼」は大型の爆弾を製造し、昭和天皇が乗る特別列車「御召(おめし)列車」を鉄橋ごと爆破する「虹作戦」を進めていたのである。(ライター:ミゾロギ・ダイスケ)

「虹作戦」の中止と残された爆弾

「狼」を構成した大道寺将司、大道寺あや子、片岡利明、佐々木規夫の4人は、昭和天皇を“日本の侵略戦争の最高責任者”とみなし、「虹作戦」と名付けた殺害計画を企てた。

これは、1974年8月14日、那須御用邸(栃木県)から東京へ戻る昭和天皇を乗せた列車を荒川鉄橋ごと爆破するというもので、実際に起爆用電線の敷設までが進められていた。

しかし、作業の遅れに加え、前夜に現場付近に数人の人影があったため、警察関係者ではないかと疑った「狼」は実行を断念した。

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こうして、昭和天皇を殺害するために造られた大型爆弾は「狼」の手元に残った。

テロ決行予定日の翌日である8月15日、「狼」に強い衝撃を与える事件が韓国で起きた。

軍事独裁政権を率いる朴正熙(パク・チョンヒ)大統領が、日本の統治からの解放と主権回復を記念する光復節の式典で、在日韓国人の文世光(ムン・セグァン)に銃撃されたのである。

銃弾は朴には当たらなかったが、被弾した妻の陸英修(ユク・ヨンス)が死亡した。大阪で暮らしていた文は朴政権を倒し、韓国で人民蜂起を起こすことを目的としていた。

このニュースに接した「狼」は、虹作戦の失敗と文世光の行動との落差に強い無力感を覚えた。それは次の攻撃へ向かう一因となった。

「狼」は、日本企業が海外へ進出して事業を拡大することを、経済力によって他国を支配する「経済侵略」だと考えていた。その象徴として標的に選んだのが三菱重工である。

三菱重工は戦前、日本の軍需産業の中心を担った。戦後はいったん分割されたが、1964年に再統合され、高度経済成長を背景に造船、機械、航空宇宙など幅広い分野へ展開していた。

予告電話から爆発まで

1974年8月30日、大道寺将司と片岡利明ら「狼」のメンバーは、三菱重工東京本社ビル正面玄関前(千代田区、現「丸の内二丁目ビル」)に二つの時限式爆弾を仕掛けた。爆発予定時刻は午後0時45分である。

昼休みの丸の内には、ビルから出てきた会社員や、食事へ向かう人々が行き交うのが常だ。「狼」が標的としたのはあくまで三菱という巨大資本だった。

ただし、爆弾闘争によって巻き添えの死傷者が出ることは覚悟していた。そのうえで「爆発前に予告電話をかければ、周囲の人々を避難させることができる」と考えていたという。

予告電話を担当したのは佐々木規夫だ。佐々木は蔵前(台東区)の勤務先の昼休み、近くの公衆電話へ向かった。午後0時37分ごろ、まず三菱重工ビル管理室へ電話をかけた。

しかし、爆破予告を告げる途中で、相手に電話を切られた。悪質ないたずらだと思われたのだろうか。すぐに向かいの三菱電機ビル管理室へかけ直したが、ここでもまともに取り合われることはなかった。刻一刻と爆破予定時刻は迫っていた。

佐々木は最後に、三菱重工の受付へ電話をかけた。交換手が応対し、爆弾を仕掛けたことと、付近の人々を直ちに避難させるよう求める言葉を最後まで聞いた。

しかし、電話が通じた時点で、爆発まで残された時間はわずか数分だった。社員や通行人を避難させる時間など、もはやほとんど残されていなかったのである。

時計の針は、正確に、そして無情に進み続けた。

午後0時45分……。二つの時限爆弾が大きな音とともに爆発した。

8人死亡の惨劇と難航する捜査

犠牲になったのは、三菱重工や周辺の会社で働いていた人々に加え、昼休みに現場付近を通りかかった人々だった。爆風によって三菱重工ビルでは9階まで窓ガラスが割れ、飛散したガラス片による被害は、正面玄関前だけでなく、周辺のビルや路上にも広がった。

警察は爆発直後より、大型の時限爆弾を用いた計画的な犯行であることから、極左過激派などによる爆弾テロの可能性を視野に捜査を始めた。だが、既知の過激派組織とのつながりはつかめず、具体的な組織や実行犯を特定できずにいた。

当時はオフィスビルの出入口や街頭に防犯カメラが普及しておらず、警察が現場の映像から爆弾を置いた人物を割り出すこともできなかった。

ところが、事件から約3週間後の9月下旬、新聞社などに「東アジア反日武装戦線『狼』」を名乗る犯行声明が届いた。

声明は、三菱を“日本帝国主義の侵略を担う企業”として非難した。さらに、爆発で死傷した人々についても「無関係の一般市民」ではなく「植民者」だと主張し、攻撃を正当化していた。

連続企業爆破:「大地の牙」と「さそり」の登場

三菱重工爆破事件のあと、東アジア反日武装戦線は活動を止めなかった。「狼」に続いて、男女2人組の「大地の牙」、男性3人の「さそり」という別ユニットが相次いで企業爆破に乗り出していくのだ。

1974年10月から1975年5月にかけて、三つのユニットは、三井物産、帝人、大成建設、鹿島建設、間組など、海外に進出している企業を標的とする爆破事件を8回(計10ヵ所)起こした。東京だけでなく、埼玉、千葉、兵庫にも犯行は広がり、計31人が負傷した。

三菱重工爆破事件で多数の死傷者を出したあとのテロは、爆破の規模が小さくなり、予告から爆発までの時間も長くなるなどの傾向がある。

だが、そんな内情を世間が知る由もなく、多くの人々は、そのうち自分の職場で時限爆弾が爆発するかもしれないという恐怖に震えた。

逮捕の糸口となった地下出版物「腹腹時計」

東アジア反日武装戦線のメンバーは、表向きは普通の市民として暮らしていた。既成の大規模な政治組織に所属せず、少人数で秘密裏に行動していたため、捜査網にも容易には浮上しなかった。

捜査の糸口となったのは、一冊の自費出版物だった。

三菱重工爆破事件の前の1974年3月、「狼」は『腹腹時計――都市ゲリラ兵士の読本』という冊子をアンダーグラウンドなルートで流通させていた。「狼」はこの冊子で、爆弾の製造法や仕掛け方、起爆方法、都市ゲリラとしての行動のすすめ、警察の尾行を避ける方法などを広めようとした。

冊子には、同じ思想を持つ者たちに、少人数のグループ単位で都市ゲリラとして共闘するよう呼びかける狙いもあった。そのため、メンバーの身元や活動拠点を隠す一方で、誌面では「東アジア反日武装戦線」の名をあえて公にしたのである。

そして、爆破事件後の犯行声明にも、同じ「東アジア反日武装戦線」の名を用いた。

警視庁は声明を分析し、『腹腹時計』の出版グループとのつながりに着目した。こうして捜査線上に大道寺らが浮上し、慎重な裏付け捜査が進められていった。             

1975年5月19日の一斉逮捕

1975年5月19日早朝、警視庁公安部は東アジア反日武装戦線のメンバーを一斉に逮捕した。

逮捕されたのは、「狼」の大道寺将司、大道寺あや子、片岡利明、佐々木規夫、「大地の牙」の斎藤和(さいとう のどか)と浴田由紀子(えきた ゆきこ)、「さそり」の黒川芳正ら主要メンバー7人と、協力者1人の計8人だった。

なお、斎藤和は逮捕直後、所持していた自決用の青酸カリを飲み死亡した。

警察は容疑者の住居や関係先を捜索していくなかで、「さそり」に宇賀神寿一(うがじん ひさいち)と桐島聡というメンバーがいることを把握し、この2人を指名手配した。その後、逮捕されたメンバーの一部には、誰にも予想できなかった運命が待っていた。

「超法規的措置」による釈放

東アジア反日武装戦線の一斉逮捕から3か月足らず後の1975年8月、中東を拠点とする極左テロ組織「日本赤軍」のメンバー5人が、マレーシアの首都クアラルンプールにある2つの大使館を占拠し、領事らを人質にとるという国際的な大規模テロ事件が発生した。

犯人グループはそのうえで、日本で拘束されている左翼活動家7人を釈放し、クアラルンプールへ移送して自分たちに合流させるよう要求した。

釈放要求対象には佐々木規夫や、あさま山荘事件の立てこもり犯である連合赤軍の坂東國男らが含まれていた。佐々木は日本赤軍のリーダーである重信房子とは接点がなく思想も一致していなかったが、戦力補強のためにいわばスカウトされたのである。

これに対し、日本政府は人質の生命を守るため、出国を拒否した2人を除く佐々木ら5人を超法規的に釈放し、移送の上で日本赤軍側へ引き渡した。

それから2年後の1977年9月28日、今度は日本赤軍に合流した佐々木や坂東ら5人が、インドのボンベイ(現在のムンバイ)発の日本航空機をハイジャックし、バングラデシュのダッカ空港に着陸させた。

乗員・乗客151人を人質に取った犯人グループが要求したのは、拘束中の左翼活動家ら9人の釈放と引き渡し、2026年現在の価値で50億円超に相当する身代金600万ドルだった。

このときも日本政府は人命優先の観点から、巨額の身代金を用意し、出国を拒否した3人を除く6人の超法規的釈放に応じた。そのなかには、連続企業爆破事件で裁判中だった大道寺あや子と浴田由紀子がいた。

死刑判決とメンバーのその後

1979年11月、東京地方裁判所は大道寺将司と片岡利明に死刑を言い渡した。二人は判決を不服として控訴、上告したが、1987年3月24日、最高裁判所が上告を棄却し、死刑が確定した。

三菱重工爆破事件をはじめとする一連の爆破事件に加え、「虹作戦」として進めた荒川鉄橋での御召列車爆破計画も犯罪事実として認定されている。三菱重工爆破事件には関わっていない「さそり」の黒川芳正には無期懲役が確定し、2026年8月現在も服役中である。

一斉逮捕を逃れた「さそり」の宇賀神寿一は1982年に逮捕され、懲役生活を経て、2003年に出所した。「大地の牙」の浴田由紀子は日本赤軍に合流後、1995年にルーマニアで逮捕され、懲役生活を経て、すでに刑期を終えた。

一方、「さそり」の桐島聡は約半世紀にわたり逃亡生活を送った末、2024年1月に入院先で名乗り出た直後に死亡した。そして、佐々木規夫と大道寺あや子は、坂東國男らとともに現在も国際手配されている。

死刑確定後も、大道寺と片岡の刑は長年にわたって執行されなかった。法務省は、その理由を明らかにしていない。

ただし、共犯者である佐々木規夫と大道寺あや子が超法規的措置で釈放され、国外に逃亡し、公判が停止したままであることが、大道寺と片岡の死刑が長年執行されなかった理由ではないかとの見方がある。

そして、大道寺は死刑確定から30年が過ぎた2017年5月24日、東京拘置所内にて68歳で病死した。三菱重工ビル爆破事件当時26歳だった片岡利明(現姓・益永)は、その後も死刑囚として収容され続けている。2026年8月現在、78歳である。

■ミゾロギ・ダイスケ

昭和文化研究家、ライター、編集者。スタジオ・ソラリス代表。大学の文学部を卒業。スポーツ雑誌、航空会社機内誌の編集者を経て独立。『週刊大衆』をはじめ、各媒体で執筆活動を続ける。犯罪、芸能全般、スポーツ全般、日本映画、スキー、プロレスなどを守備範囲とするが、特に昭和文化研究はライフワークだ。著書に『未解決事件の戦後史』(双葉社)