「何でこんなに賢い子が産まれたのかな」――妻・真菜さんが残した育児日記には、50冊以上の絵本を記憶する長女・莉子ちゃんの愛おしい成長と、家族で描いていた沖縄移住の夢が綴られていた。

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 しかし2019年4月19日、池袋での暴走事故により、そのささやかな幸せは一瞬で奪い去られてしまう。絶望のなかで残された松永拓也さん。愛する妻と娘の記憶と当時の心境とは――。

 記者として長年、同事故を取材してきたTBSテレビの守田哲氏の新刊『池袋高齢者暴走事故 遺族と加害者家族の2060日』(文藝春秋)よりお届けする。(全3回の1回目)


真菜さんがつけていた育児日記(松永拓也氏提供)

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「我が子というのは、何て愛おしいものなのか」

 沖縄の病院で産まれ、東京で育った松永は都内の私立高校を卒業し、大学は理系に進んだ。

 今は精密機器大手の関連会社でエンジニアとして、オフィス機器やセキュリティ関連の業務を担当している。当初は都内の実家から千葉県浦安市の勤務地に通っていたが、結婚を機に千葉県市川市の賃貸マンションに引っ越した。真菜さんは家計を支えようと東京都中野区の歯科クリニックで仕事を始め、一時間以上かけて通勤していた。

 ある日、松永が仕事から帰ると、「たく、妊娠したよ!」と真菜さんが飛びついてきた。夫婦は歓喜の声を上げた。つわりがひどく、一日中動けない日もあったが、真菜さんは「ベビーちゃん、早く逢いたいね」と言いながら、お腹を愛おしそうに撫でていた。夫婦は子育てにかかる費用を貯めるためにも、松永の両親が住むアパートの近くに引っ越した。

 二〇一六年一月一一日、真菜さんは一時的に里帰りし、沖縄の病院で三一七〇グラムの莉子ちゃんを出産した。松永もその場に立ち会い、「頑張れ、頑張れ」と励まし続けた。我慢強い真菜さんは、叫び声ひとつ上げなかった。病院で出産した直後の動画がある。助産師が元気な泣き声を上げる莉子ちゃんをタオルにくるみ、真菜さんの胸元に置く。

 松永が助産師に「ありがとうございました」と声をかける。真菜さんが、呼吸を整えながら、莉子ちゃんの手を少し触り、頰を撫でる。莉子ちゃんの瞼が開き、目が合った真菜さんは感情が込み上げ、少し唇を嚙みしめた――。

「我が子というのは、何て愛おしいものなのか」

「この二人を守り、絶対に幸せにする」

 莉子ちゃんは小さな手で、松永の指をぎゅっと握り返した。その手は驚くほど柔らかく、ぬくもりがあった。抱きしめると、なんともいえない優しい匂いがした。その瞬間、「自分の子なんだ」と思うと同時に、父親になった。泣き続ける莉子ちゃんと、涙を流す真菜さんを見ながら、命の尊さを教えられた。

「この二人を守り、絶対に幸せにする」と心に誓った。

 育児や家事は大変だったが、真菜さんがミスをすることはほとんどなかった。夜八時の寝かしつけ時間も必ず守っていた。物事をこなすスピードが恐ろしいほど速く、マルチタスクも難なくこなしていた。

 松永が「なぜそんなに処理能力が高いの?」と聞くと、「常に三つ四つ先のことを考えながら、目の前のことをやっているから」と話していたという。松永は真菜さんの昔の同僚からも「真菜の仕事は完璧で、患者さんからの信頼も厚かった」と聞いていた。

 春は花見、夏は海やお祭り、秋は紅葉を観に行き、冬は莉子ちゃんが好きだった温泉に行った。一番の思い出は、二〇一八年夏の北海道への旅行だ。莉子ちゃんは美瑛町の広大な大地を走りまわり、旭川市の旭山動物園のキリンを見て喜んだ。

 真菜さんは出産後、外で働かず、育児に専念していた。育児日記には莉子ちゃんの成長が生き生きと描かれている。莉子ちゃんが「トラック」「スプーン」「フォーク」と話したのは一歳五か月。

 一歳九か月で地図を見て、東京、沖縄の位置関係を理解していた。一歳一〇か月、公園で花を摘んだ際に「花瓶にいけよう」と言い、左右の概念も理解していた。二歳のとき、「吉祥寺マリメッコいく〜?」と聞いた。

 莉子ちゃんは家にある絵本を暗唱できた。字が読めないにもかかわらず、『はらぺこあおむし』(エリック=カール作)を一回読み聞かせただけで〈「おや、はっぱの うえに ちっちゃなたまご。」〉という書き出しを暗唱できるようになった。

 そして五〇冊超の絵本の文章が頭に入っていた。ことわざのカルタも、一週間で全四四組を記憶して「飽きたー」と言った。「ABCの歌」を聞いた数日後に「きらきら星」が流れると、「これ、同じだねー」と話した。両親は理解できず「これは違う歌だよ」と言ったものの、しばらくして音階が同じ曲だと気づいた。

「ちゃらんぽらんの僕から、何でこんなに賢い子が産まれたのかな。本当に僕の子供かな」

「親ばかだねー」と笑った真菜さん

 松永がそう話すと、真菜さんは「親ばかだねー」と笑った。

 やがて莉子ちゃんは物心がつき、愛情表現も豊かになった。二歳四か月、真菜さんが「どうしてお父さんだっこだめなの?」と尋ねると、「お父さんは友達だからだっこできません。お母さんは友達じゃありません。だっこしていいです」と話した。

 想像力、共感力にも優れていた。真菜さんが珍しく体調を崩した際は、心配していた。「お母さん大丈夫? 莉子(を)たくさんだっこしたから? マッサージしてあげる」と言ってだきしめた。胃痛でソファで横になっていると、毛布をかけて「大丈夫? いたいいたいとんでけ」と言ってくれたという。

 真菜さんは日常生活で後ろ向きな感情を持つことはほとんどなかった。しかし、亡くなった愛する姉を思い出し、気づかれぬよう夜中にひっそりと涙することもあった。そんなとき、松永はそっと真菜さんを抱きしめた。

 育児日記にはネガティブなことは一切書かれていなかった。日々の不平不満や、人の悪口は一文字も確認できなかった。

 最後となった育児日記には、莉子ちゃんが南池袋公園で拾ってきた紅葉の葉が挟んである。

 もしあの事故がなかったら、真菜さんはこの日記の続きに沖縄での生活を綴るはずだった。

 ある日の夜、真菜さんは松永に「相談があるんだけど」と遠慮がちに打ち明けた。

「沖縄で暮らしたいんだ。海のそばに中古でいいから家を買って、そこで莉子を育てたいと思ってる」

 家族で話し合い、松永は沖縄の会社に転職し、真菜さんはパティシエの妹とカフェを開く計画を進めていた。将来、娘は勉強に励み、恋愛や進路に迷い、職を得ていつか親元を離れる。結婚して子供ができる年になれば、自分も妻も穏やかな老後生活を送り、静かに生涯を閉じる。

 松永家は大都会の片隅で暮らしつつ、そんな夢をぼんやりと描いていた。

「あなたに出会えて幸せだった」“亡くなったはずの妻”がなぜ目の前に…?《池袋暴走事故》妻子を失った松永拓也さんが見た「不思議な夢」〉へ続く

(守田 哲)