「約10年で世界販売台数を1.7倍に」 元トヨタ社長・奥田碩さんが死去 「上司に疎まれてフィリピンに7年間左遷されたことも」
物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は8月8日、老衰のため亡くなった、元トヨタ社長・奥田碩さんを取り上げる。
***
【写真を見る】トヨタ・豊田章一郎氏から東レ・榊原定征氏まで… 「歴代経団連会長」のそうそうたる顔ぶれ
トヨタ自動車の販売台数は世界で年間1000万台を超え、6年連続世界首位の座を保っている。トヨタが世界でトップに立つ基盤を確立したのが、1995年から4年間、社長を務めた奥田碩(ひろし)さんである。
「財界」主幹の村田博文さんは就任時を振り返る。
「奥田さんは副社長として番頭格の重責を担っていた。とはいえ、創業家出身の豊田達郎社長に突然の病気がなければ、奥田さんは社長になっていたか。何も変えないことが最も悪いと所信を表明。その場しのぎではなく、問題の本質をつかみ先を見据え具体的な行動を伴う変化を求めた」

奥田さんを何度も取材してきた、ジャーナリストの小宮和行さんは言う。
「率直な物言いでうそをつかない。質問をはぐらかさない。社長就任から間もない頃、足元が揺らいでいては世界に攻勢をかけられないと国内販売のシェア40%確保がいかに重要か力説した姿を思い出します。空理空論が嫌いで現場、現物に即していた。猛烈な読書家で他業種の人ともよく会い、発想の源にする。社長任期中の手柄にしようとせず、方向性をしっかり示し、目標を着実に達成させた」
トヨタが世界販売台数で初めて首位を達成したのは2008年。奥田さんが社長も会長も退いた後だ。
約10年で世界販売台数は1.7倍に
32年、三重県の津生まれ。55年に一橋大学商学部を卒業、当時のトヨタ自動車販売に入社。経理畑を歩む。
72年から約7年間フィリピンに駐在。上司への直言が疎まれての左遷らしい。後にトヨタの社長、会長を務める豊田章一郎さんが当地を訪れた際、こんな優秀な人物がいるのかと驚き、東京に戻され頭角を現す。
82年、取締役。バブル期には財務担当だったが、財テクに手を出さなかった。62歳で図らずも社長に就任。
「豊田家を求心力のある旗に例え、尊重していました。独断専行ではなく決断は慎重でした」(村田さん)
97年には世界初の量産型ハイブリッド車、プリウスを予定を早めて投入した。小型車のヴィッツ(ヤリス)は世界販売を念頭に設計し、その読みは当たる。
99年、会長に。社長就任の95年から会長退任の06年の期間に連結売上高は2倍超、世界販売台数は1.7倍に成長を遂げた。
「海外に積極的に出るしかないとの覚悟がありました。トヨタの原点といえる豊田佐吉さんが発した“障子を開けてみよ。外は広いぞ”の言葉を奥田さんはよく引用していました。外に目を向けるトヨタ精神を時代に即して実践し、成果につなげていた」(小宮さん)
「モノづくりの前に人づくり」
財界活動にも熱心だった。日経連会長の後、統合を経た現在の経団連の会長を02年から4年間務めた。小泉純一郎首相の時代と重なる。
「社会保障制度のために消費税のゆるやかな引き上げは必要などと、言いづらい提言もしている。先送りせず解決への道筋をつける姿勢は経営者としての奥田さんと同じです」(村田さん)
安易な人減らしは長期的には企業を弱体化させると、雇用に一家言を持っていた。
「集中力、言葉で説明しにくいカンやコツは簡単に養われず、その積み重ねが製造業の底力になる、業種は違っても人が現場で鍛えられて育つ必要性は同じだろう、と話していました。モノづくりの前に人づくりとの信念は、トヨタの姿勢と重なっていた」(小宮さん)
一方、財界活動で非正規雇用の増加に歯止めをかけることには力及ばなかった。
18年トヨタ相談役を退く。
「古い世代がいつまでも存在を感じさせてはいけないと話していた通り、口出しはしなかった」(小宮さん)
60年に1歳年下の同僚と結婚。1男1女を授かる。
8月8日、老衰のため93歳で逝去。妻と都内の施設で暮らし、遺志通り葬儀は近親者のみで営まれた。名が聞かれなくなって久しいが訃報は大きく伝えられた。有言実行の経営者だった。
「週刊新潮」2026年8月27日号 掲載
