矢作芳人調教師が知る馬主としての顔…「ハマの番長」三浦氏の男気が奇跡を呼んだ「競走馬の復活劇」
番長に馬主になることを勧めた
僕は根っからの横浜DeNAベイスターズファンだ。大洋ホエールズ時代に本拠地としていた川崎球場が、生まれ育った大井競馬場と近かったこともあり、子供のころから応援している。
そのベイスターズのエースとして長年にわたって活躍し、'21年から'25年まで監督を務めた「ハマの番長」こと三浦大輔氏は競馬が大好きで、いまはJRAの馬主になっている。
番長に馬主になることを勧めたのは、何を隠そうこの僕だ。'10年頃、ベイスターズの担当記者になった開成の後輩の紹介で、番長と初めて会った。「馬券が当たらない」という番長に「それなら馬主になったらどうですか?」と勧めたところ、とんとん拍子に話が進み、現役プロ野球選手として初めて馬主になったのである。
1頭目の所有馬はリーゼントブルース。僕が日高で探してきた候補馬数頭の中から、番長と奥さんが「この馬がいい」と一致したのが芦毛のブルースだった。
'11年11月にデビューしたブルースは、翌年6月に東京の未勝利戦で8戦目にしてようやく初勝利。以後もなかなか勝てないレースが続いたが、とにかく着を拾ってくる馬主孝行な馬だった。結局3勝しかできなかったものの約6300万円の賞金を稼いでくれて、それが2頭目のリーゼントロックにつながった。
「可能性がゼロでないのであれば」
リーゼントロックは僕にとっても忘れられない1頭だ。デビューして順調に2勝を挙げ、5戦目のスプリングステークス(GⅡ)でも5着と健闘した。しかし、ダービーを目指して出走した京都新聞杯(GⅡ)でレース中に骨折。競走中止になってしまった。
左後肢の粉砕骨折で、常識的には予後不良になるケースだった。自宅にいた番長に電話をし、状況を尋ねられた僕は、「普通なら諦めます」と答えた。諦める=安楽死ということだ。「経済的な負担もありますし、そのほうが馬も楽だと思います」と正直に伝えた。ただ、それでも番長は諦めなかった。「可能性がゼロでないのであれば助けてください」。その言葉に番長の男気を感じた僕は、栗東トレセンで緊急手術を行うことを決めた。
手術はボルト6本を埋め込む大手術となり、4時間を超えた。その時点では、競走馬として復帰することなどまったく考えられなかった。
ところが、思いのほか経過がよく、しばらくすると「これなら乗馬用の馬にはなれるかもしれない」という状態まで回復。さらに1~2ヵ月すると、「復帰できるかもしれない」というところまで戻ってきたので、番長と相談。「やれるだけやりましょう」と、福島県いわき市にあるJRA競走馬リハビリテーションセンターにロックを送り出した。いわき湯本温泉を利用した馬専用の温泉療養施設である。
シーズンオフに番長の車に同乗して二人でロックの様子を見に行ったところ、帰りに大渋滞に巻き込まれ大変困ったことを覚えている。
「奇跡の復帰」からの大活躍
こうしてロックは骨折から1年2ヵ月後に奇跡的に復帰。結局、引退するまでに50戦も走ってくれた。競走中止した京都新聞杯が7戦目だったから復帰してから43戦も走ったことになる。生涯獲得賞金は約1億6000万円。地方重賞の佐賀記念2着、GⅢのマーチステークス3着と重賞でも好走し、地方GⅠの東京大賞典にも出走した(8着)。番長にとって、この経験が馬主として長くやっていくことの礎となったことは間違いない。
ロックはいま京都競馬場で誘導馬をしている。番長にとって馬は家族の一員。余生を含めて最期まで責任を持つのが番長のスタイルだ。番長の所有馬には、引退後、相馬野馬追(福島県沿岸部で行われる伝統的な神事)で甲冑をまとった武者を背に、活躍している馬もいる。以来、三浦家は毎年相馬野馬追に足を運ぶようになり、今年は番長も初参戦。愛馬にまたがってきたという。そんなことも、馬主としての楽しみの一つになっているようだ。
7月の函館では、エフフォーリア産駒の期待の2歳馬、リーゼントエースがデビューした。残念ながら結果は出なかったが、あの馬の能力はあんなものではない。必ず変わると思うので期待している。
矢作芳人(やはぎ・よしと)/調教師。'61年東京都生まれ、開成高校卒。'05年に厩舎を開業し、無敗の三冠馬コントレイルや年度代表馬のフォーエバーヤングなど名馬を多数輩出。海外遠征で多くの実績を残していることから「世界のYAHAGI」と呼ばれる
「週刊現代」2026年8月31日号より
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