【小林幸子 我が道20】両親の娘に生まれたことが名前の通り「幸い」です
「雪椿」のモデルになった母のイツは25年前の2001年7月17日に天に召されました。79歳、心筋梗塞でした。本当にあっという間に「じゃあね」という感じで逝ってしまいました。いまだに「ウソでしょう?」「どうして?」という気持ちが残っています。それほどピンピンしていましたが、スッといなくなってしまったのです。
当時、両親は静岡県の家に住んでいました。私たちは3人姉妹ですから、母と女4人はいつも電話で連絡を取り合い、たわいもない話をしていました。毎日、当たり前のように普通に会話していたので、最後に母と何を話したか記憶がありません。それが少し残念です。この年の10月からNHKのテレビ小説「ほんまもん」に出演することになっていた時期です。広島でのコンサートを終えた直後に一報が入り、新幹線で三島まで戻りました。亡くなった母の顔を見ても、涙が出るより「なんで?」という言葉しかありませんでした。最期まで誰にも迷惑をかけずに静かに終える生き方は、私も見習いたいものです。
生前「お父さんを残して私が先に逝くのはあり得ない」と言っていた母。その心配は的中してしまいました。最愛の妻に先立たれた父の落ち込みは激しく、併せて認知症も進みました。「幸子、お母さん、そっちに行っているのだろう?いないんだよ」と父から電話がかかってくるようになりました。説明して分かる時もありましたが、次第に分からない時が増えました。
母が亡くなった5年後の06年12月9日。父の喜代照も心不全で亡くなりました。その1年前に脳梗塞で倒れ、病院と隣接している施設で闘病を続けていました。最期は孫もひ孫も全員集まり、みんなで見送ることができました。亡くなる前に私の顔をじっと見つめて「幸子!」「ありがとう」と振り絞るような声で言ってくれました。
2人とも、とても明るい人でした。元日が誕生日なので、父は「いつも全国の人が“おめでとう”って言ってくれるんだよ」と笑っていました。もう少し頑張れば、米寿でした。その父のおかげで私は歌手になれました。お返しに、この数年前に歌手志望だった父のためにレコーディングする場を設けました。十八番(おはこ)だった「影を慕いて」「無法松の一生」を父に歌ってもらい、カセットテープに残しました。それを棺に納めました。
一方、母はずっと私が歌手になることは反対でした。「女性は平凡が一番。結婚して子供を産んで、旦那さんに可愛がられるのが幸せ」が持論で口癖でした。それでも私が選んだ生き方をじっと見守ってくれました。亡くなる前年、恒例にしていた温泉旅行の時に「お母さん、まだ(歌手になることを)反対している?」とそっと尋ねました。ニコニコしながら「してるよ」と言われたことが忘れられません。この夫妻の娘に生まれたことが、まさに名前の通り、幸いです。
◇小林 幸子(こばやし・さちこ) 本名・林幸子。1953年(昭28)12月5日生まれ、新潟市出身の72歳。作曲家・古賀政男に見いだされ、64年「ウソツキ鴎」で10歳の時に歌手デビュー。79年「おもいで酒」が200万枚突破の大ヒット。同年の日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞し、紅白歌合戦に初出場。以後34回出場した。最近はニコニコ動画、SNSなどで若い世代やネットユーザーに「ラスボス」として人気を誇る。

