メディアが発達障害を“キラキラした個性”として消費し続けたこの10年。話題の漫画『みいちゃんと山田さん』の炎上騒動によって、近年のメンタルヘルス報道の無責任さが炙り出された。障害をPV稼ぎの道具にする風潮からどう抜け出し、真の多様性社会を構築できるのか。

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 本人も重度のうつの体験を持ち、精神科医・斎藤環さんとの共著『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(新潮選書)がある歴史家・與那覇潤さんが、臨床心理士・信田さよ子さんの著書『溺れながら生きる』を手がかりに、誰もが何かに溺れ(依存し)ている現代社会のリアルに迫り、次なる10年のケアのあり方を提示する。

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『みいちゃんと山田さん』の炎上が炙り出したもの

 あの人はビョーキでも「溺れてない」から、ケアしてあげよう。

 ここ10年ほどメンタルヘルスの論じ方をミスリードしてきた、そんな空気がいよいよ閉じられつつある。『溺れながら生きる』という表題はまさにその転換を、本を開く前の読者に伝えるカナリアになっている。


信田さよ子『溺れながら生きる 依存とケアのあいだで』(文藝春秋)

 いまメンタルの疾患を扱う議論は、マンガ『みいちゃんと山田さん』(愛称は『みい山』)をめぐる論争で持ちきりだ。2024年からオンラインで連載された、障害ゆえに風俗嬢としての生き方に溺れてしまい、不幸な最期を迎える女性を描く作品である。

 この7月にアニメ化の予定が発表されたのだが、差別の助長につながらないかとして物議を醸し、ネットで賛否が沸騰している。(作者ではなく)刊行元の編集者が連載中に、露悪趣味を煽るようなPRを仕掛けていたことから、一時は炎上に近い状態にまでなった。

 だが起きている事態の本質は、ありがちな不謹慎ゆえの「やらかし」ではない。むしろこの10年間、メディアが無責任に続けてきた、メンタルヘルスの描き方の大きな反転だ。

 コミックスの第1巻には、主人公と同じ境遇だった女性が「療育手帳」(愛の手帳)を得ている描写があり、同作が焦点を当てているのが「知的障害」なことは明白だった。ところがなぜか「発達障害」(この場合、取得するのは「精神障害者保健福祉手帳」)の当事者を傷つけるとする批判が、今年の2月にはすでに寄せられ、話がこじれ出していた。[※1]

 第2巻では「1話きり」の完全な脇役として、発達障害のキャラクターが登場し、逆にいうと作品全体の主題は「そちらではない」と伝えるメッセージにもなっていた。にもかかわらずここまで混乱が生じたのには、それなりのゆえんがある。

障害者であっても「溺れてないからスゴい」という演出

 バブルとさえ呼ばれた、日本のメディアがこぞって発達障害を特集するブームのピークは、今から10年前の2016年。その後もグレタ・トゥーンベリやイーロン・マスクといった、世界で知られる著名人のカミングアウトが続き、あたかも「ギフテッド」(恵まれた特性)のように持ち上げる論調すら広まった。

 あの人の「障害」はむしろ個性であり、ポジティブなものなんだ。障害者であっても超一流のレーンを泳ぎ、「溺れてないからスゴいのだ」とする演出が、絶えずつきまとっていた。だけど、常識で考えてほしい。そんな「無理推し」が、いつまでも続くはずはない。

 2023年には、ノンフィクションの分野でも「発達障害アンダーグラウンド」[※2]と銘打って、むしろ悲惨な身上の当事者ばかりを採り上げる(私に言わせれば、ずいぶん露悪的な)企画が始まった。発達障害は脳の特性として「他人の内面」を察するのが難しく、周囲との人間関係を破綻させてしまう例があるためだ。

 メディアがキラキラと装飾すればするほど、「実態はそうじゃない」と暴露し、覗き見しようとする欲求も高まる。だいぶ前から堤防の上限ギリギリまで来ていた水位が、『みい山』でついに溢れ出したというのが、今年起きたことなのだ。

 どうすればいいのだろうか。日本のカウンセラーの草分けで、かつアルコール依存症――日常がまるごと酒に溺れて、最も「キラキラさせにくい」疾患から臨床を始めた、著者の信田さんの答えははっきりしている。

 この人は障害があっても「溺れてません」のように誇示するのは、ケアじゃない。大事なのは反対に、健常者と呼ばれる人でもなにかに「溺れている」ことに、気づくことだ。

「健常者」もまた何かに溺れている――多数派の病を自覚したときに真の多様性が見える

「溺れる」を精神医療の用語に直すと、「依存」になる。正式な病名になっているのはアルコール・薬物・ギャンブル・ゲームの4つだが、ネット利用・ショッピング・ダイエット・セックスなど、比喩として「依存症」が用いられる対象と無縁に暮らす人は誰もいない。

 食事せずに生きていける人はいない点で、本来はあらゆる人がカロリーに依存している。もしその一部にだけ「摂食障害」のような病名がつくとしたら、こんな風に食べないと「生きていけない」という度合いが、全体の中央値から外れてしまったからにすぎない。

 そんなズレは、どこから起きるのか。自分のことを周囲と対等な「ふつう」の人だと感じさせない、傷つきやトラウマこそが犯人だというのが、信田さんの診断だ。

〈 摂食障害の人たちは小さな自分の身体を「主戦場」にして、勝利を収めようと日々試みている。カロリー計算を武器にし、体重をコントロールする世界で生きる。そして太らないことで「ああ、今だけは許されている」と安堵する。

 (中 略)

 その人たちは、個性的な食行動・摂食行動によって助けられたのである。食べて吐いて、ギリギリまで痩せることで、なんとか生きてきたのである。それこそがアディクションの、依存症の意味なのではないか。(87-88頁)〉

 問題はなにかに溺れる(依存する)人ではなく、そんな「溺れ方」につけこんで搾取する人の側にある。薬物依存者からクスリ代を取り立てる売人が典型だが、一見すると溺れている「本人」にお金を落とす場合もあることが、事態をいっそう困難にする。

〈 セックスをすることで、男性から、たとえ一瞬であっても「かわいい」と言われたり、お金をもらったりできる。自分にも価値があるのだと思える貴重な経験なのだ。虐待的家族で育った女性たちが、10代半ばから複数の男性との性行為を繰り返し、時には同棲したり、性産業で働くようになることの背景には、彼女たちのトラウマがあるのではないか。(40-41頁)〉

次なる10年のケアのあり方を探る信田さよ子『溺れながら生きる』

 依存とは生存戦略である。あまりにも戦略の立て方が独特で、社会の標準から逸脱した場合には「病気・障害」のレッテルが貼られるが、それは貼りつける側が多数派であることを示すにすぎず、「健康」であることを保証してはいない。

 職場での仕事に「依存」することで、家庭を顧みず空っぽにした父親や、子どものキャリアを上昇させることに「依存」して、いつしか教育虐待に陥った母親を見ればいい。彼らはかつて、この国の戦後社会の主流派だった。だがそのあり方を健康だと思うのは、いまはもうよほどナイーブな人しかいない。

『みいちゃんと山田さん』にせよ後半は、主題が弱者を庇護することで得られる優越感に「依存」する、一見すると病気でない人が抱える闇へと移る。彼らはそれなりに優秀で、社会に適応しているのかもしれない。だがそんな社会の全体こそが、パターナリズムの病を再生産していたら、どうだろう。

 平成の晩期に始まる、ここ10年間のダイバーシティ(多様性)の風潮は、そうした昭和以来のマジョリティへの異議申し立てだった。ところがそれは健康を測る基準の自明性を疑わないまま、溺れていないように見えたマイノリティの「上澄み」だけをちやほやし続けて、令和にはすっかり信用を失ってしまった。

 世の中をうまく泳いでいることを根拠に、病気があっても「この人は健康だ」と言い張るのは、多様性でもなんでもない。むしろ健康とされる側もまた、なにがしかの「病気」を抱えていると自覚するとき、はじめて多様な生き方を認める社会が生まれる。

 誰しも幼少期から人生を振り返れば、なぜあんなムキになってハマったのだろうと思い出す体験を持っている。そのドアを開けて次なる10年のケアのあり方を探す、「ホモ・ディペンダンス」(依存する人間)のための原論である。

〈 トラウマに満ちた世界・トラウマまみれの人生を生きるには、依存は不可欠なのであり、依存することは、広い意味でのトラウマケアなのだ。依存から依存症への距離は質的ではなく、量的なものに過ぎない。病気かどうかは、明確な一線が引かれているわけではない。(130-131頁)〉

(與那覇 潤/ライフスタイル出版)