深紅の大優勝旗から33年〜育英、復活への挑戦(前編)

 取材の申請を行なった際、スマホの向こう側から拍子抜けするほど正直な言葉が返ってきた。

 「うちで大丈夫ですか? 仙台育英さんと間違われていませんか?」

 声の主は、兵庫・育英高校野球部を率いる安田聖寛(まさひろ)である。

 無理もない。これまで、春夏通算19回(春13回、夏6回)の甲子園出場を誇る兵庫屈指の名門も、2005年春の選抜大会を最後に聖地から遠ざかっている。

 その後、2013年夏に前橋育英(群馬)が全国制覇を果たすと、2022年夏には仙台育英(宮城)が東北勢初の日本一を達成した。全国の高校野球ファンにとって、「育英」といえばその2校を想起させる時代なのかもしれない。


2012年から母校である育英の指揮を執る安田聖寛監督 photo by Katsuharu Uchida

【地元・兵庫から甲子園に行きたい】

 しかし、高校野球の歴史を紐解けば、兵庫の育英も燦然と輝く実績を残している。巨人のV9時代を支えた土井正三、近鉄ひと筋で歴代4位の317勝を挙げた鈴木啓示、今季限りで現役を引退する"ミスター・ライオンズ"栗山巧ら、名だたるOBたちがその伝統を築き上げてきた。

 そして、忘れられないのが1993年夏だ。育英は創部初となる全国制覇を達成した。のちに近鉄やソフトバンクなどで活躍した大村直之らとともに、主将としてチームを牽引したのが安田だ。

「選手として1992年春と1993年夏の2回、甲子園に出させてもらいましたが、本当に野球がうまくなる場所だと思いますね。心がきれいになるというか、させてもらえるというか......。チンタラしたり、いい加減なことをしていたら許さないぞ、というお叱りを頂戴する場所だと思っています」

 母校の指揮官に就任して15年目になる。自身が歩んできた激闘の記憶と、伝統校の誇りを取り戻すための戦いは、中学生時代の「ある選択」から始まっていた。

 兵庫県西宮市で生まれ育った安田は中学時代、硬式野球チームで白球を追っていた。高校進学は、当時、全国の球児の憧れだった大阪のPL学園か、父の母校である北陽(現・関大北陽)を希望していた。

「最初はずっとPLに行きたかったのですが、父から『大阪なら北陽以外はあかん』と言われたんです。そこで、僕自身も、父が叶えられなかった甲子園の夢を北陽で叶えるんだとずっと思っていたんです。でも、中学3年の夏に運命が変わりました」

 1990年、育英はエースの戎信行(元オリックスなど)を擁し、33年ぶりに夏の甲子園へと出場。テレビの画面越しに見る洗練されたアイボリーのユニフォーム、そして地元・兵庫の代表として甲子園で躍動するナインの姿に、一瞬で心を奪われた。

「中学のボーイズリーグの先輩がふたり試合に出ていたということもあって、やっぱり地元の兵庫から甲子園に行きたいという考えになりました」

 土壇場で志望校を育英へと変更。そして1991年春、期待を胸に名門の門をたたいた。

【甲子園でランニング本塁打】

 前年の甲子園出場効果もあり、同学年には優秀な選手が集まっていたが、安田は1年春の段階から実力を認められ、着実に実戦経験を積んでいく。

 同年秋、兵庫大会を3位で通過。迎えた近畿大会は準々決勝で敗退し、翌年、2年時の春の選抜は補欠校に回されたが、出場予定だった神戸弘陵の辞退により、代替校として繰り上げ出場。チームは15年ぶりとなる春の甲子園でベスト8まで勝ち進んだ。

 安田自身も2年生ながら主力選手として好結果を残す。初戦の駒大岩見沢(北海道)戦。この年からラッキーゾーンが撤去され、両翼が5メートル、最深部が8メートル広くなった甲子園でランニング本塁打を放ち、全国にその名を知らしめた。

「1学年上の松井秀喜さんがラッキーゾーン撤去後初の本塁打を含む3本塁打をマークした大会でもありました。僕もランニング本塁打を打ちましたが、『安田って誰だ?』なんて言われましたね(笑)。でも、浮かれた気持ちはありませんでした。私や大村を含めて2年生のレギュラーが4人いましたし、甲子園で野球をやるために育英を選んだんだという強い思いと、自分の名前より、育英の名前を全国に売ってやろうという気持ちで必死でした」


今季限りで現役を引退する西武の栗山巧も育英野球部OBだ photo by Katsuharu Uchida

 しかし、チームは2年夏の兵庫大会でベスト4に終わり、甲子園切符を逃す。新チーム結成にあたり、主将に指名されたのが安田だった。

 日下篤監督(当時)が1、2年生を集めて口にしたのは、「甲子園ベスト4」。選抜の8強を超えるための高い目標だったが、秋の兵庫大会は2回戦で敗退。翌春も県ベスト8止まりと、決して順風満帆とは言えない道のりだった。

 それでも、新聞や雑誌の展望記事は「夏の本命は育英」という文字が並んだ。春の近畿大会を制した姫路工や、前年夏の覇者・神港学園など、強豪ひしめくなかでも、当時の育英が持つポテンシャルは群を抜いていた。

 それを象徴するのが、1993年夏の兵庫大会決勝だ。近畿王者・姫路工との一戦は7回まで0対0と、手に汗握る投手戦となった。

「5回ぐらいでしたか、たしか一死三塁のチャンスがあって、僕が三振を取られたんです。自分で言うのもなんですが、普段はあまり三振しない打者だったんです。あの時は自分に対してイライラしてしまって。とにかくひとつのミスも許されない緊迫した雰囲気でした。姫路工さんは本当に強かった。もしかしたら、甲子園に出ていたチームより強かったかもしれません」

 試合は8回に1点を先制し、そのまま1対0で兵庫の夏を制した。優勝候補の重圧を跳ね返したチームは、勢いそのままに聖地へと乗り込んだ。

【怒涛の快進撃で夏の甲子園決勝に進出】

 1993年夏の甲子園、育英の快進撃が始まった。初戦の秋田経法大付(現・明桜)を14対4、2回戦の旭川大高(現・旭川志峯/北北海道)を11対3と、圧倒的な打力で退けた。

 続く3回戦の相手は横浜商大高(神奈川)。これまでの大勝とは打って変わり、1点を争うしびれる接戦となった。

「先制されては取り返して、という展開でした。不気味だったのは、うちが勝ち越しても、相手ベンチがガクッとなる様子がいっさいなかったこと。『打ち返せばいいじゃん』という関東チーム特有のノリというか、堂々とした雰囲気に凄みを感じましたね」

 最終的に5対4と接戦を制してベスト8に進出すると、準々決勝の修徳(東東京)戦、準決勝の市立船橋(千葉)戦と、関東勢との激闘が続いた。のちにプロで活躍する高橋尚成(修徳−駒澤大−巨人など)、大学で同僚となった1学年下の小笠原孝(市立船橋−明治大−中日)といった好左腕と対峙したが、育英の打線は揺るがなかった。

「うちのキーは3番打者の大村でした。彼は左投手をまったく苦にしなかったので、だから1番の僕や、2番の岡本(健二)が出塁すれば、大村がなんとかしてくれるという信頼感がありました。高橋くんのスクリューボールを見極め、小笠原のストレートをコンパクトに弾き返す。対策が見事にはまりました」

 全国の並み居る強豪を打ち破り、ついにたどり着いた決勝の舞台。新チーム結成時に掲げた「甲子園ベスト4」という目標は、すでに通過点となっていた。横浜商大高との激闘を制した頃から、チーム内には「上を狙う」という本気の思いがみなぎっていた。

 そして、1993年8月23日。春日部共栄(埼玉)との決勝の朝を迎える。地元・兵庫代表として甲子園を埋め尽くす超満員の観客。満を持して臨んだ最後の戦いで、安田はアクシデントに見舞われることになる。

文中敬称略

つづく>>

内田勝治●文 text by Katsuharu Uchida