「あのとき、東京に連れて来なければ」猛スピードの暴走車に跳ねられ妻と長女が死亡…《池袋暴走事故》喪失に苦しむ遺族・松永拓也さんを救った「義父の言葉」
〈「加害者を見つけたら殴るかもしれない」やり場のない怒り、妻子を失い泣き崩れた日も…《池袋暴走事故》被害者遺族・松永拓也さんが苦しんだ「事故直後の葛藤」〉から続く
「あの日、東京に連れて来なければ」――事故で愛する妻と幼い娘を同時に失い、激しい自責の念と喪失感に苛まれていた松永拓也さん。その深い苦悩のなかで、彼の心を救ったのは義父・上原義教さんの言葉だった。
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長年取材を続けてきたTBSテレビ守田哲氏の新刊『池袋高齢者暴走事故 遺族と加害者家族の2060日』(文藝春秋)よりお届けする。(全3回の2回目/続きを読む)

池袋暴走事故の発生から7年が経った2026年7月。慰霊碑に献花する遺族の松永拓也さん(右)と上原義教さん(写真:時事通信社)
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「なんでこんな目に」
高橋の熱意に動かされ、松永ら遺族は最終的に警視庁の捜査方針に納得をした。
しかし、捜査の説明には常に困難が伴った。それは七月一〇日のことだった。莉子ちゃんが着ていた服の生地がごみ収集車に付着していたことを伝えられた松永は号泣して我を失った。
こうした過酷なやりとりを通じ、高橋と松永は信頼関係を構築していった。
私が、松永と両親に、忖度無しで今の考えを話してほしいとお願いしたところ、父親はメディアスクラムへの積もった思いを吐き出した。
「アパートの上の階に同居していた父親(松永の祖父)のところに、テレビ局が来ていて、そのときは何て不躾な人たちだろうと。僕らも何にもしてないのにね。正直に申し上げますけど、ショックがあった上に、なんでこんな目にあわされるんだろうと」
「自分がしっかりしないといけなくて、涙も出ませんでした。でも…」
事故当日、真菜さんと莉子ちゃんが搬送された病院から帰宅したときのことである。警察車両に父親と松永、そして付き添いの警察官が同乗していた。自宅が近づくと、警察官が「ご自宅にマスコミが集まっています。安全確保のために動線を作りますので……」と言った。
しかし、父親は提案を断った。「なぜ、私の家なのに自由に入ることができないんですか」と怒気交じりで車のドアを開け、家に入っていき、松永も後に続いた。記者たちは申し訳なさそうな顔をして、声をかけることができなかったという。
母親は背筋を伸ばし、白髪交じりの髪を後ろで束ねていた。質素さの中に上品さが滲み出ていた。母親が抱えていた思いを切々と吐露し、涙をとめどなく流した。
「事故直後は信じられませんでした。やることがいっぱいあって、自分がしっかりしないといけなくて、涙も出ませんでした。でも、ふと、どうしていないんだろうと。写真も思い出もいっぱいあるのに、孫たちが集まったときに真菜と莉子がいない。どうしていないんだろうと」
母親は、莉子ちゃんに色々な経験をさせてあげようと二人で外食をしたことがある。手作りの食育を徹底していた真菜さんに怒られるかもしれないと思ったが、真菜さんは「そんな経験をさせてもらってありがとうございます」と感謝した。
真菜さんは自分の信念を大切にしながら、それを杓子定規に押しつけることをしない。母親はそんな懐の広い真菜さんのことが大好きだった。
「彼女から人の悪口を聞いたことはありませんでした。姑としてではなく、いち女性として本当に尊敬していました。こんな素晴らしい人が、本当に息子のお嫁さんなのかなって。私たち本当に幸せだねって、主人と一緒に心から感謝していました」
葬儀場や自宅に真菜さんの知人が大勢弔問に訪れ、彼女の人徳をあらためて感じたという。
いくつもの偶然
母親の礼儀正しい話し方は、松永と似ていた。疑問形の際に語尾を上げるイントネーションが気になり、「沖縄のご出身ですか」と聞くと、「私は伊江島の出身なんです」と明かした。
松永の父方の先祖は福島県だが、父親は生まれも育ちも東京だ。そこに母親が嫁いできた。
国頭郡伊江村に属する伊江島は沖縄本島の北西、美ら海水族館の対面に位置する。この二二・七六平方キロメートルの美しい離島は、苦難の歴史を歩んだ。戦中は旧陸軍の大飛行場が建設され、日米双方から沖縄戦の要衝とみなされた。伊江島での戦闘は「沖縄戦の縮図」と呼ばれ、疎開せず残った住民約四〇〇〇人のうち約一五〇〇人が命を落とした。戦後も米軍の弾薬爆発で一七七人が死傷するという、米軍統治下で最大の事故が起きた。
母親の親族も沖縄戦で命を落とした。沖縄が日本に返還されたのは、中学一年生のとき。県立那覇商業高校を卒業後、就職のため本土に移る。知人の紹介で、川崎市中原区の工場で働き始めた。その後、都内の会社に転職し、二〇代で父親と結婚。二人の娘と拓也を育てた。
母親は里帰り出産で、沖縄県名護市の病院で拓也を生んだ。
真菜さんも姑と同様に一時的に故郷の那覇に戻り、莉子ちゃんを出産した。つまり、松永家は母親、拓也、莉子ちゃんと三代続けて沖縄生まれなのだ。母親は自身の経験を、真菜さんに重ね合わせていた。
「真菜ちゃんは相当な決心をしたんだと思います。私も長男の嫁として、いろいろとあったので、真菜ちゃんに寂しい思いをさせたくなかった。嫁姑という関係じゃなくて、友達って言ったらおかしいんですけど、私なりに心の支えになれたらと」
母親がそう思った背景には、もうひとつの偶然があった。
末っ子長男である拓也と真菜さんの結婚が決まったのち、真菜さんの母親、喜美子から電話がかかってきた。喜美子は娘から話を聞く中で、結婚相手の母親が高校時代三年間のクラスメイトであることが判明したのだ。二人は偶然の再会に驚き、喜んだ。
母親は、喜美子に「うちのこんな拓也で本当にいいの?」と冗談半分、半分本気で結婚を心配した。すると、喜美子は真剣な口調で断言した。
「あんな素晴らしい人はいないよ」
「拓也のことを全然わかっていないよ。拓也は真菜のために生まれてきた人なんだよ。あんな素晴らしい人はいないよ」
母親は冗談を言ったつもりだったが、ショックを受けた。しかし、喜美子が拓也のことを大切に考えてくれていたことを知り、こう決意した。
――私は真菜ちゃんのことを絶対に守ろう。それが自分の使命なんだ。
松永が育ったのは東京だったが、そのルーツを辿っていくと、人間の紐帯が幾重にも織りなす、沖縄の濃密な世界が広がっていた。
いつも持ち歩いている育児日記
八月一六日の午後三時前、羽田空港第一ターミナルの出発ロビーで松永と落ち合った。夏の空港は人の気持ちを浮き立たせるものだが、曇り空とにわか雨特有の匂いが水をさした。日本航空(JAL)の九州・沖縄方面行きのチェックインカウンターには長蛇の列ができていた。
松永のポロシャツ、白い短パン、白いスニーカー姿は、周囲の喧騒に違和感なく溶け込んでいた。沖縄の旧盆は昨日で終わっていたが、那覇行きのJAL九九五便は大勢の客で賑わっていた。麦わら帽子を被った女性や、くしゃくしゃの浮き輪を持ち歩く子供もいた。
松永はスーツケースを引きながら、眉間に皺を寄せ、口を一文字に結んでいた。テレビで見る松永は猫背で小さく見えるが、機内のキャビンに手荷物を難なく収納する姿を見て、意外と背が高いことに気づいた。松永は窓際の席に静かに身体を沈み込ませた。
松永はこの路線に数えきれないほど乗ったが、事故後はじめて妻の実家を訪ねることになる。彼の瞼に焼きついていたのは、いつも隣に座っていた妻と娘の姿だ。今までは羽田で三人分のチケットを受け取っていたが、今回は一人分。あらためて二人はいなくなったことを感じた。
私は彼と一対一で顔を合わせるのは二回目に過ぎず、真横に座るのは憚られたため、通路を挟んだ席を予約した。機体が滑走路を離陸しても、彼はずっと無言だった。
私は緊張していたが、意を決して切り出した。
「真菜さんの育児日記を見せてくれませんか」
松永が育児日記をいつも持ち歩いていることを私は事前に知っていた。松永は「ちょっと待ってください」と言い、足元の黒いリュックサックを膝の上に置き、ノート三冊を大切そうに取り出した。ノートを受け取る際、松永が指にはめていた結婚指輪が見えた。
育児日記の一冊目の表紙には「RIKO 2017」と書かれていた。池袋西武の無印良品で買った褐色のスケジュール帳で、一ページに一週間の予定を書き込める。A5サイズの再生紙三二枚をホチキスで留めたノート。そんなシンプルなデザインを選んだところも質素で倹約家の真菜さんらしかった。
日記には…
おそるおそるノートを開く。真菜さんはマス目一杯に小さな文字をぎっしりと詰め込んでいた。
二〇一七年八月九日、莉子ちゃんが一歳七か月のときの書き込みを見つけた。
〈マナが「よいしょ」と言うと「かーさんよいしょ」とマネる。ぎゅーして「大好き」と自分から言ってきた!!♡〉
真菜さんは莉子ちゃんの微笑ましい成長の様子をつぶさに綴っていた。母乳を卒業した。靴が履けた。トイレに自分で座れた。ある日、冷蔵庫の中身を見ながら、「なっとうないなー どうしようかなー」と言いながら人差し指をあごに当てた。自分の食べこぼしを床に見つけると、「そうじきしよう。いそいでそうじき」と言って掃除をした。別の日は、おならをすると「りーこ ぷーした〜 ごめんなさーい」とおじぎして笑った。
公園で親子三人でかけっこした日のことだ。父親の拓也がズルをして、ショートカットしてゴールに駆け込み、「イエーイ」と声を上げた。すると、莉子ちゃんは、真菜さんに抱きついて大泣きした。
おむつは二歳八か月で卒業した。
〈「今日からパンツね」と伝えてトイレスタート! 自分から出ると言ったのが3回、行く?と聞いてから2回の計5回トイレで1度もおもらしなし〉
こんな書き込みもあった。
〈「お父さん、早く帰ってくるよ。何する?」と聞くと、「最近ぎゅーしてないじゃん」。寝る前に「お父さん、好きなんだー」と何度も話した。真菜さんは「お父さんお仕事頑張ってるんだよ」と話すと、「じゃあ、いつもありがとうってお手紙書こうか」と言った〉
莉子ちゃんの感情表現はページをめくる度に豊かになっていった。歴史に残らない平凡な日常で、かけがえのない日々がそこにあった。
「もう、つらいわな」
松永が那覇空港の到着ロビーに辿り着いたときには午後七時を過ぎていた。到着口から出てきた松永を、上原義教が出迎える。上原が松永の肩に触れ、労った。子供たちの楽しそうな声が響き渡っていた。小さな男の子と女の子がダッシュした余勢でロビーを滑っていた。
上原はすすり泣き、問わず語りに話す。
「もう、つらいわな。一番つらいのは拓也だけど」
いつもは上原が空港で待っていると、莉子ちゃんは手を振ってから「じいじー」と走ってきて、抱きついてきたという。
私は翌日のインタビューの約束を確認して二人と別れた。おもろまちの投宿先のホテルを目指そうと、空港を出た。かすかな潮の香りがした。タクシーに乗り、ゆいレールの高架を眺めながら、育児日記や松永と上原の顔を思い出した。
「時間が戻せるんであれば……」
翌八月一七日の朝七時ごろ、私はインタビュー場所の下見のために新都心公園の土を踏んだ。
ガジュマルなど数千本の植物が一帯を覆っていた。カメラマンも同行し、大型の撮影機材がある。雨が降ったら取材を続けることは難しい。天気予報は曇り時々雨。午前中から小雨が降り、昼になると激しくなった。外での取材を断念しかけたが、雨が止み、ハイビスカスについた雫に太陽の光が反射し始めた。
約束の午後二時、松永と上原がポロシャツ姿でゆっくり歩いてきた。公園は上原の家から徒歩一〇分弱だ。松永は「晴れてよかったですねぇ」と少し笑った。
初めて見た松永の笑顔だった。署名活動を翌日に控え、「このまま天気が続いてくれるといいですけど」と雑談を続けた。
しかし、二人は大型の探検型遊具を凝視して微動だにしなくなった。遊具は、複数の滑り台、抜け穴、ロープで編んだネットなどが組み合わさっていた。私が「この公園は……」と話し始めた途端、上原が遮った。嗚咽と笑顔が混ざっていた。この公園は、松永家が帰省すると莉子ちゃんと必ず来る場所だった。上原が回想した。
「私の膝に乗って滑り台に乗ったり、どっちが速く滑れるか競争したり。本当に私に懐いてくれてね。最初は上れなかったロープが上がれるようになってね。この遊具を見ると、成長を思い出しますよ」
松永が言葉を継ぐ。
「二歳のころからブランコが好きでした。ずーっと一人でブランコこいで。次の子が並んだら、『どうぞ』って。おもちゃとかも譲るんですよ。本当に優しい子でした」
莉子ちゃんの話は尽きない。上原の声がうわずる。
「莉子を守ってあげられなくて。時間が戻せるんであれば……。最近、夜になると公園を歩くんですけど、つらくて歩ききれないですよ」
あの日、何が起こったのか。何を感じ、考えたのか。二人揃って事故の事実(ファクト)と感情(エモーション)を明らかにする初めての機会となった。
「一番つらいのは、たくだと思うんですよ」
真菜さんは結婚したとき、自分がかつて使っていたスマホを上原に渡し、上京後は毎日電話をかけていた。手紙も月に一回か二回出していた。上原が追憶する。
「真菜とは細かい話はしないんですけどね。親を思う気持ちは人一倍ありました」
松永の祖母の法事のため、松永家は二〇一九年六月に伊江島に帰省する計画を立て、航空券も宿も予約していた。その法事の前に、真菜さんと莉子ちゃんが実家に帰る予定だった。
「私も本当に楽しみにしていたのに、こういう結果になって、悔しいというか。莉子と、かき氷のこととか話して。真菜は本当に子供の健康を気遣ってね、市販のかき氷なんか食べさせない。いちごを潰して、かき氷機で氷を削って。公園に来るときは、手作りのおにぎりを持ってきてね。東京だけじゃなくて、沖縄でも全部手作り」
上原はこの一〇年間で四人の家族を亡くした。二〇〇九年、真菜さんの姉にあたる次女が二度の骨髄移植という壮絶な闘病生活を経て、二五歳の若さでこの世を去った。二〇一六年一〇月には妻が予兆なく自宅のトイレで倒れ、くも膜下出血で他界した。上原は今回の事故で娘と孫を亡くし、何度も自死を考えた。上原はそれにもかかわらず、娘婿を慮った。
「一番つらいのは、たくだと思うんですよ。最愛の妻と娘が、一瞬にしていなくなるわけですから。私の妻もお別れも何もなく突然ね、気づいて救急車呼んでもダメでした。大切な人が突然いなくなると、気が狂いそうで、何をしていいのか、わからない。たくがつらくてつらくて、本当に大変なのはよくわかります」
真菜さんは、東京に行くことに躊躇いがあった。
「真菜はちっちゃいときから、本当に恥ずかしがり屋でした。お姉ちゃんたちのことが大好きで、いつも後ろに隠れていました。だから、姉(次女)が亡くなったとき、真菜はかなり落ち込んでね。女房が亡くなってからも。家族のことを気にして、最初は東京に行きたくなかったのかもしれない」
真菜さんが松永と結婚し、沖縄を離れたことをどう思っているのか。事故後、松永自身は恐くて聞くことができない質問だった。私の問いかけに、上原は迷わず答えた。
「東京に行かせたことを後悔していません、全然。たくみたいな素敵な人と出会えて、可愛い莉子も授かって。短い人生だったけど、真菜は松永家に嫁いで幸せでした。これからの人生もあるんだから。あなたは、いくつになっても私の息子だから。それだけははっきり言っておく」
松永は義父を直視できず、ずっと下を向いて肩を震わせている。
「あのとき、東京に連れて来なければ」
「事故当時は、自分を責めに責めました。あのとき、東京に連れて来なければ、真菜は死ななくて済んだ、って。お義父さんは自分を恨んでいるのかもしれない、とか……。今はできるだけ考えないようにしてるんですけど、お義父さんの言葉が救いになります」
松永の声が乱れ、やっと聞き取れるほどだった。
「お義父さんは家族を次々に喪って。僕だったら耐えられるのかなって。それでも前を向いてらっしゃる姿は、僕にとっての希望だから」
しばし、沈黙した。
「尊敬してます。僕のことを心配して、いつも電話をかけてくれて『大丈夫?』って。真菜を素晴らしい人間に育ててくださって、出会わせてくれて、本当に感謝しています。上原家のみなさんも温かく包んでくれるので、感謝しかありません」
上原と松永が取材用に用意した椅子に座った。救急車のサイレンが遠くで鳴る。後ろのグラウンドでは、父と男の子二人が野球をやり、幼い女の子がそのまわりを楽しそうに走り回っていた。
松永が事故の前後のことを、訥々と語り始めた。
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「生まれてきてくれてありがとう。二人に出会えて幸せだったよ」ーー池袋暴走事故の遺族・松永拓也さんが明かした「妻と娘との最後の別れ」とは。
〈「拓也、見ないほうがいい」霊安室で再会した氷のように冷たい妻、そして娘は…《池袋暴走事故》松永拓也さんが語る「妻と娘との最後の別れ」〉へ続く
(守田 哲)
