木村和司伝説〜プロ第1号の本性
連載◆第32回:佐々木則夫評(6)

JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。


木村和司氏の「伝説のFK」もテレビで見ていたという佐々木則夫氏 photo by Sankei Visual

第31回◆電電公社の営業をやっていた佐々木則夫 馴染みの客の家で見た木村和司の勇姿>>

 のちに日本代表で背番号10を託され、ワールドカップ初出場にあと一歩まで迫った木村和司の活躍について、佐々木則夫は「それはもう、我々同期の誇りですよね」と力を込めて語る。

 いまだ語り継がれる1985年10月26日のワールドカップ最終予選、日韓戦での"伝説のFK"も「もちろん映像では見ました」。

「アイツ、もう大学時代から無回転っぽいシュートも蹴れていましたからね。あの頃は、まだ無回転なんていう特別にフィーチャーされるような言葉はなかったけど、ちょっと長めの、あれは無回転だったと思うんだけど、そういうボールを蹴れていたと思うし。

 キックの種類はいろんなものを持っていたんですよ。我々には簡単に蹴れないようなキックを。(練習の前後に)遊びで蹴っていたときも、本当にめちゃめちゃうまかったし。"バー当て"もアイツ、負けたことないと思いますよ。やっぱキックの精度が高かったから」

 当時の明治大サッカー部が練習で使っていたのは、土のグラウンド。当然、ボールも蹴りにくかったに違いない。

 しかし、「土でも、すげぇ〜FKを蹴っていましたからね。キックはやっぱりいいもんありましたよ。ミドルシュートも結構強烈なのを蹴れていたし」とは、佐々木の述懐だ。

 バー当て、すなわち、誰が早くボールをクロスバーに当てるかを競う遊びでは、仲間同士でジュースをかけたりすることもあったようだが、佐々木は「いや、僕は負ける勝負はやらないタイプなんで。やらなくてもわかっているから、やらなかった(笑)」という。

「もう身につけている技術っていうのは、太刀打ちできないなって大学時代にわかりました。いくら努力家の僕でも、努力は必ず実ると言っても、あのキックとドリブルは......、いやぁ、ちょっとね、僕には無理でした」

 明治大在学当時、ウイングで頭角を現した木村も、その後は日本屈指のゲームメイカーとして、その名を知られるようになる。

 だが、そのコンバートにしても、佐々木にまったく驚きはなかった。それどころか、日本代表で10番を背負うようになるのも当然のこと。佐々木には、そんな思いすらあったという。

「パスの感覚も、もともとすばらしいものを持っていて、いろんなことができていたんでね。相手をかわしてロングのスルーパスとかも、もう兼ね備えていたからね、実際に。それに加えて、ミドルシュートでしょ?

 僕もボランチだったけど、パッと周りを見た瞬間に、これぐらいの距離でこういうキックを蹴ろうって思っても、僕らは蹴れない。でも、和司はその状況を察知したら、正確なボールが蹴れていたんで。そこはやっぱり、ちょっと違いましたもんね」

 しかしその一方で、天才と評してもいいほどの才能を持った選手だったがゆえ、木村に「監督のイメージはなかった」とも、佐々木は言う。

「もちろん、S級(プロチームの監督に必要な指導者ライセンス。現Proライセンス)も取って、勉強したと思うし、監督をできないってことはなかったと思います。実際、いろんなタイプの指導者がいると思いますからね。

 ただ、彼ほどサッカーのプレーが感覚的にうまいと、それが指導のなかでは、いろいろとこう......、ぶつかることもあるんじゃないかな、と」

 木村が人並外れた才能を持っていたからこそ、佐々木には「『なんでできねぇんだ、おまえ、こんなことが!』ってなっちゃうんじゃないかな」という心配があったのである。

「僕らみたいに、もう努力しなかったら成り立たなかった選手は、いろんなことを考えなきゃいけないし、工夫しなきゃいけないし、もっと言えば、何かをごまかすとか、そういうこともしなきゃいけない。

 でも、彼はもう、もちろん工夫はしていたんだろうけど、サッカーの才能的にすばらしいものがあるから、それが理解できるかなっていうね......」

 佐々木が2011年に女子ワールドカップで優勝したとき、久しぶりに会った木村は「おまえが女子の監督やるとは思わんかったわ」と茶化しながらも、同級生が成し遂げた快挙を喜んでくれたという。

 しかし、木村自身の監督としてのキャリアは、Jクラブでのものに限れば、横浜F・マリノスでのわずか2シーズン限り。華やかな栄誉とは無縁のまま、現在に至っている。

「1を言って10を知れって、昔の指導者ってそうだったと思うし、それが通じる部分もあったと思うんですけど、それが今はだんだんとね......。そこを段階的にクリアしていく術を学んでいけばね、(木村が監督を続けることも)可能だったと思うけど......」

 佐々木は、"木村和司監督"がわずかな期間でその役目を終えてしまったことを惜しみつつ、こう続ける。

「あまりにも技術的にプレーヤーとして天才なので、それが功を奏するかどうかっていうのは楽しみだったんだけど......、難しいところもあったんだろうなと思います」

 それは選手としてレベルの違いを見せつけられた者だからこそ抱く、複雑な感情である。

(文中敬称略/おわり)

木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年〜2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。

佐々木則夫(ささき・のりお)
1958年5月24日生まれ。山形県出身。帝京高、明治大を経て、大学卒業後に電電公社に入社。大宮アルディージャの前身となる電電関東(のちにNTT関東)でプレー。現役引退後、1996年からNTT関東(のちに大宮)の監督を務めた。2006年からなでしこジャパンのコーチ、U−17女子代表監督に就任。2007年からU−20女子代表の監督となり、翌年からはなでしこジャパンを指揮。2011年女子ワールドカップでは日本を世界の頂点に導いた。その後、2012年ロンドン五輪でも銀メダル、2015年女子ワールドカップでも準優勝という成績を収めた。現在は日本サッカー協会女子ナショナルチームダイレクターを務めている。

浅田真樹●取材・構成 text by Masaki Asada