〈写真多数〉うつろな表情でタバコを吸う入れ墨の女性患者、捕虜の看護をする地元の女性たちの微笑み…カラー化した写真でよみがえる“沖縄戦のリアル”〉から続く

 81年前の8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争が終結した。しかし、沖縄だけは15日以降も戦闘状態が続き、正式に降伏調印式が執行されたのは9月7日のことだった。さらにその後27年の間、アメリカの統治下に置かれ続けることになる。

【画像】「実は先生じゃなかった」81年前の沖縄戦の写真に写る女性、現在は100歳になったハルキさんの写真を見る

 大阪市在住のホリーニョさん(@horinyo)は、沖縄戦に巻き込まれた住民たちの白黒写真をカラー化してSNSに投稿している。2025年2月28日にはそれらをまとめた『カラー化写真で見る沖縄』(ボーダーインク)を出版。現在は会社員として働きながら、カラー化写真を通して沖縄の歴史を伝えるために各地を巡っている。

 最近は自身がカラー化した写真に写る100歳の女性や、沖縄戦を経験した姉妹に話を聞く機会があったというホリーニョさん。当事者にしかわからない戦中・戦後の「空気」のことや、今改めて戦争の傷を見つめ直す意義について伺った。(全2回の2回目/最初から読む)

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81年前の写真に写る女性と“まさかの対面”

――ホリーニョさんは最近、カラー化したこの写真に写っている女性と、実際に会ってお話ししたんですよね。ニュースで見て驚きました。


1945年4月25日 米軍占領後の沖縄 伊江島にて。撮影のためポーズを取る先生と子供たち(沖縄県公文書館所蔵/ホリーニョさん提供)

ホリーニョさん(以下、ホリーニョ) そうなんですよ。これは沖縄戦中の伊江島で写した1枚で、真ん中に写っているのが玉城ハルキさんという女性です。沖縄県公文書館に収蔵されている写真なんですが、キャプションでは「写真撮影のため、ポーズを取る先生と子ども」と説明されています。

 でも、実際にご本人のお話を聞いてわかったんですが、ハルキさんは学校の先生ではなかったんですよ。

――そうなんですか? 詳しく経緯から教えてください。

ホリーニョ 今年の1月、定点撮影や勉強のために伊江島に滞在したんです。伊江島は「沖縄戦の縮図」と呼ばれるほどの激戦地になった場所で、訪問するのは修学旅行以来ぶりでした。

 伊江島に同行した友人が後日、沖縄県立図書館で調べものをしていたら、「ホリーニョさんのカラー化写真が引用されてるよ」って1冊の書籍を教えてくれて。そこにハルキさんのお名前とインタビューが載っていたんですよ。

 読んでみると本の中でお話している当時のハルキさんは95歳ぐらいだったので、本の出版年を考えると現在は100歳ぐらいになっていらっしゃるはず。ふと「もしかして、お会いできるんじゃないか」って考えて、その本を取り扱っている事務局に電話をかけてみたんです。

「もし可能なら」「ご迷惑じゃなければ」と断った上でご相談してみたところ、関係者の方を繋いでいただきまして。ついにハルキさんに辿り着きました。ご連絡してハルキさんの娘のめぐみさんに「こういう活動をしている者です」と説明したら「ぜひぜひお越しください」と言っていただけて。

写真だけ見てもわからない「本人だけが知る事実」

――すごい行動力ですね。ハルキさんとはどんなお話をされたんですか。

ホリーニョ そもそも僕は100歳の方とお話しした経験自体があまりなくて、お会いする前からとても緊張してました。「つらいことを思い出させてしまうんじゃないか」という不安や恐怖もありましたし、「丁寧に話そう」と決心して伺ったんです。

 でもハルキさんはお会いした瞬間から「うわー!」って大きい声でリアクションしてくださって。写真をお見せしたら「懐かしい懐かしい」って目に涙を浮かべておられました。「長健」「朝光」という方の名前を何度も呼ばれていたので詳しく伺ったら、隣に写っている二人の少年はハルキさんの幼い従弟たちなんだそうです。それが長健さんと朝光さん。

――なんと。それは写真を見るだけではわからないことですね。

ホリーニョ そうなんですよね。実は関係の深い方だったという。

 戦中・戦後のお写真に写っている方と直接お話ししていて興味深いのは、当時の写真を見て「あの頃だ」とわかるのって自分の顔がきっかけじゃないんですよ。周りの家族や友人の顔は覚えているけど、自分の顔は覚えていないんです。

 なぜかというと、当時は鏡がなかったから。自分の顔を知らなかったんです。写真だってすごく貴重な時代ですから。だからハルキさんもよく覚えていたのは従弟の顔だったんだと思います。

――このお写真が撮られた当時の状況のこともお話されましたか。

ホリーニョ 写真は1945年の4月25日にナーラ浜に子どもたちが集められているところを写したものです。ハルキさんは戦前から伊江島で物を売る仕事をしていて、戦争が始まってからも日本軍などに物資を売るお店で働いていたそうです。当時19歳でした。

 そこへ米軍が上陸してきて伊江島は占領された。通訳をしていた日系2世の「ヒノさん」という米兵から子どもたちの世話を頼まれたとおっしゃっていました。ヒノさんの指示でハルキさんが子どもたちを整列させて、そこをカシャッと撮った写真なんです。

1人だけ「靴を履いて」「洋服を着ている」理由は…

――では、学校の先生ではなかったんですね。

ホリーニョ 僕も先生だと思っていたので驚きましたね。ハルキさんは通訳のヒノさんがとても優しくて良い人だったから、なんとか頑張ろうと思って子どもたちの面倒を見てたらしいです。

 あと、写真を見ている時からハルキさんは何を履いているんだろう、とずっと気になってたんですよ。周りの子どもたちはみんな裸足ですよね。ご本人に聞いてみたら、おじいさんが「足を怪我しないように」って履かせてくれた地下足袋なんだそうです。

 着ている服も洋服みたいでオシャレですよねって質問したら、自分で作った服だと教えてくれました。ご両親が洋裁の技術を身につけていて、娘であるハルキさんも戦前の那覇の町に学びにいっていたそうです。

 周りの子どもたちが着ているような服の素材で上着を作ってボタンをつけて、スカートは大豆などを入れる分厚い袋を自分で洋風のスカートに縫い直したって。「ミシンじゃなくて手で縫ったのよ」って何度もおっしゃっていました。

 81年前の写真に写っている若い女性が実は「オシャレが好きだった」とか「服は自分で作ったものだ」とか、そういうバックグラウンドを知ると見え方が変わってきますよね。当事者に聞かないとなかなかわからないことなんで、貴重な体験ができました。

――当時をすごく身近に感じられるお話ですね。

ホリーニョ でも、実は同じ瞬間を写した違う構図の写真があるんです。そこには子どもたちを並ばせるハルキさんの向こう側に大勢の米兵が写っていて。インタビューの間も、ハルキさんはずっと楽しそうにお話ししてくださっていたんですが、当時を思い出して「怖かったです」と悲しい表情をされた時間もあって。

 この写真を撮られた後は船で伊江島から別の場所の収容所に運ばれて、その最中「死ぬかもしれない」「自分も子どもたちも殺されるかもしれない」と考え続けていたそうです。そんな恐怖心の中で撮られた1枚だということも、また大事ですよね。

 インタビューが終わって僕が帰る時、ハルキさんは「また近くまで来られたら、良かったら寄ってくださいね」って優しく声をかけてくださって。最後に笑顔でお別れできたから、とても良かったなと。娘のめぐみさんと一緒に新聞やテレビの報道も見てくださったみたいで「嬉しいよ」ってメッセージをもらいました。ぜひまたお会いしに行けたらいいなと思っていますね。

戦争を生き延びた80代の姉妹からも話を聞いた

――ホリーニョさんは昨年から戦前の沖縄で撮られた一般の家族写真をカラー化する活動も行っています。今年はこの写真に写っている姉妹のお二人やそのご家族にも会いにいけたんですよね。

ホリーニョ これは1941年前後に撮影された写真で、当時12人いた家族のうち6人が揃っているそうです。真ん中の女性の膝に座っている少女が静子さんで、前列右側に立っているのが美代子さん。このお二人はご健在でお会いできました。カラー化を依頼してくださったかなみさんは、一番左に写っているお兄さん(四男)の孫にあたります。

 現在、静子さんは86歳で美代子さんは89歳。お二人と最初にお会いした際も僕はやっぱり緊張してしまって。場がギクシャクしてどうしようかと思ったんですが、かなみさんとご家族の方が間に入ってくれて少しずついろんなお話が聞けましたね。

 静子さんたち家族が住んでいた読谷村は、1945年4月1日に沖縄本島にやってきた米軍が最初に上陸した場所でした。一家は砲弾を避けるためガマ(自然洞窟)に逃げ込んだものの、食料を調達しに行ったお母さんとお兄さんは爆撃されて亡くなってしまったそうです。写真の真ん中に写る女性と、右端に写る少年ですね。

 それから米軍に指定された収容所に移ることになったそうですが、その時に体験した「悔しすぎて忘れられないエピソード」をお二人が話してくれたのがとても印象的でした。

――どんなエピソードですか?

ホリーニョ 当時、常に飢えている状況の中で月に1回だけ米軍から甘くて美味しい脱脂粉乳の配給があって、静子さんと美代子さんはそれを「アイス(の粉)」と呼んで楽しみにしていたらしいんです。ある日、その「アイスの粉」をもらったものの用事があってすぐに食べられず、二人が「地面に置いたら蟻に取られてしまう」と困っていたら、同じ収容所で暮らすおばさんが「預かってあげる」と言ってくれたそうです。

 その言葉を信じて預けたら、二人が帰った時にはおばさんの家の人たちに全部食べられてなくなっちゃっていた、と。それで姉妹が怒りを爆発させて、おばさんの家族が暮らす建物に土をどんどん投げ込んで仕返しした……っていう話を、ジェスチャーを交えて二人が話してくれたんです。僕もその場にいたご家族も思わず笑っちゃうようなユーモラスなジェスチャーで(笑)。

 当時は今よりもずっと過酷な状況なので比べたらいけないかもしれないですが、楽しみにしていたアイスを食べられて腹が立つ気持ちって、僕らもすごくわかるじゃないですか。それを家族で思い出しながら楽しく語ることにも共感できますよね。80年近く前の出来事を身近に感じられるエピソードで、聞けてよかったなと思いました。

戦争が与えた「心の傷」をいろんな角度から考えたい

――戦後とはいえ、子ども時代の記憶ですもんね。楽しい瞬間もあって当たり前ですよね。

ホリーニョ はい。でも、僕もそう思って「収容所での暮らしは、もちろん苦しいことばかりだったと想像しているのですが、楽しかった記憶もあったりしますか?」と聞いたら「ありません」ってきっぱりおっしゃられて。やっぱり相当過酷で、生き延びるだけでもハードな状況だったんだろうなっていうことが伝わってきました。

――なるほど。他人が勝手に決めつけていいことじゃないですね。

ホリーニョ ハルキさんや静子さん、美代子さんといった、沖縄戦を経験した方々の話を聞いていて思ったんです。戦中・戦後のトラウマや心の傷について、実はあまり語られてきていない側面もあるのかもしれないって。もちろんすでにたくさん語られてきてはいるんですけど、語らなかった人もいるんだと。

 沖縄戦の死者は住民の4人に1人と言われています。当時、みんなが家族を亡くしていて、たくさんの亡くなられた方が地面に横たわる中を走って逃げた経験のある人もいる。戦争が終わってからも当時の記憶を語ること自体が、非常に苦しいことだったんだと思います。

 家族にも口を閉ざして「悲惨な歴史を忘れて復興のために前を向こう」って傷を抱えながら生きてきた沖縄の方がたくさんいらっしゃる。だから僕のカラー化写真を見て「自分の母親は、おばあは教えてくれなかったけど、こんな体験をしたのか」という感想を抱く戦後世代の方が多いのかもしれないですね。

 戦後81年経って当時を生きた方々が少なくなって、かつての戦争の傷との向き合い方は変わってきていると感じます。沖縄戦に限らず、たとえば「戦争加害者の心の傷」についても最近少しずつ語られ始めていますよね。軍事作戦で人を殺して日本に帰ってきた人が、PTSDやトラウマに苛まれ、家族に暴力を働くようになってしまう。そんなDV被害を受けた方々による語りも増えてきています。

 僕自身もまだまだ勉強不足なのですが、カラー化写真で歴史を知るきっかけを作りながら、その向こう側にある傷について興味を持つ人を増やしたい。だから精神科医の蟻塚亮二さんの本『沖縄戦と心の傷』を読んだり、今年9月に劇場公開される塚本晋也監督の映画『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』の原作を読んだりして、戦争が人に与えるトラウマなどについて勉強しています。これまで人々が負ってきた戦争の傷について、いろんな角度から考えることが必要だと感じていますね。

――その必要性は近年さらに高まっているような気がしますね。

ホリーニョ そうですね。静子さんたちご家族との別れ際に「こんな時代だから、しっかり伝えてくれたら嬉しい」と言われたんです。沖縄戦を経験されているから今の時代に漂う「戦争の空気」に危機感を持たれて、そう言ってくださったのかなと思います。

 これからも僕はカラー化写真やこういった発信を通じて、特に沖縄の歴史に触れるきっかけの少ない沖縄県外の方々に、興味関心を持ってもらうきっかけ作りをしたい。そしてお世話になっている沖縄に恩返ししていきたいなと思っています。大阪から沖縄に行って、沖縄の方々とお話しして自分も学んでいく活動を続けます。

 生成AIを導入して着色の精度はかなり上がっているので、過去にカラー化した白黒写真をもう一度カラー化して、皆さんに見ていただくということもやっていきたいですね。

(「文春オンライン」編集部)