〈熊本地震2週間〉「クルマのエンジンを切るのは自殺行為」40度超の酷暑、断水…被災者を追い詰める“地震後の災害”
大きな爪痕を残した熊本の被災地では、揺れが収まった後も過酷な日々が続いている。断水や停電に加え、熊本市では40度を超える猛烈な暑さを記録。壊れた家の片付けに追われる住民たちの体力を容赦なく奪い、復旧の足かせとなっていた。7人が死亡したイオンモール熊本の爆発現場、倒壊家屋が並ぶ八代、避難所――。発災から1週間あまり、記者が被災地を歩いて見た「地震後の災害」の実態とは。
【画像】地震直後のイオンモールの店内、損壊した家屋、倒壊した鳥居
日常が途切れたイオンモール
8月4日(火)から7日(金)まで、熊本の被災地を歩いた。現地に入って最初に体へこたえたのは、灼熱の暑さだった。
出発当日の東京が涼しかっただけに、飛行機を降りた瞬間、熱気が顔に貼りついた。日なたでは、考える前に汗が出る。少し歩くだけで、背中まで濡れた。日陰に入っても涼しくない。空気そのものが熱を持っていた。
最初に向かったのはイオンモール熊本である。爆発した建物の周囲には、力の大きさを示す物が残っていた。建物から飛んだ破片が、100メートル以上離れた堤防を走る道路のガードレールを壊し、河原まで飛んでいた。
現場で距離を目にすると、爆発がどれほど激しかったかが分かる。普段なら家族が買い物をし、従業員が働く場所である。そこだけが大きくえぐられ、日常が途中で切れていた。
爆発では7人が亡くなった。経済産業省が8月5日に公表した事業者報告では、地震でLPガスの配管が損傷し、漏れたガスに引火した可能性が示された。
漏れた場所や火がついた原因は、まだ調査中。避難後、安全確認が終わる前に館内へ戻った従業員がいたことも確認されている。中には、売上金を金庫へ入れるよう勤務先から言われ、戻った人がいた。地震が収まった後に、別の危険が待っていたのである。
8月7日朝の消防庁集計で死者は38人、住宅の全壊は699棟
熊本市内は、景色は意外なほど普通だった。信号は動き、車も流れ、大半の店は通常営業だった。8月7日朝の消防庁集計で死者は38人、住宅の全壊は699棟に達している。
それでも、街全体が水に沈み、道路も病院も一斉に止まる災害にはならなかった。被害が集中した地域の外では都市機能が残った。不幸中の幸いである。
熊本赤十字病院が動いたことも大きい。各地の赤十字病院は災害救助の最前線基地となる。
10年前の熊本地震では、その熊本赤十字病院に地震が直撃した。病院自身も被害を受け、停電も起きた。今回は建物にもライフラインにも被害がなく、発災直後から救命救急センターが動いた。8月3日時点で災害対応として121人を受け入れている。
今回は傷つかずに動けたというわけだ。救急車が右往左往するような事態はあまり見られず、初動の余裕につながった。10年前の経験があったからこそ、予定入院や外来を止め、救急へ力を集中する切り替えも早かったようだ。
ぺちゃんこになった家、残った家、何が違うのか
八代方面へ進むと、景色は変わった。古い家がぺちゃんこになっている。2階が1階を押し潰し、屋根だけが地面に置かれたような家もある。壁がなくなり、食器棚や布団、仏壇が道路から見えた。
家を失うとは、財産を失うだけではない。人に見せる必要のなかった暮らしまで、外へさらされることである。その隣で、新しい木造住宅は立っていた。同じ道にあり、同じ揺れを受けたのに、結果がまるで違う。
これは今回だけの話ではない。2016年の熊本地震後の調査では、旧耐震基準の木造建物の倒壊率は28.2%、1981年から2000年の基準では8.7%、2000年以降では2.2%だった。
古い家は、見た目が立派でも人を守るとは限らない。太い柱や重い瓦屋根が、倒れた瞬間に凶器へ変わる。耐震性が足りないと分かった家は、建て替えられるなら壊すべきである。
難しいなら、壁、柱の接合部、基礎まで含めて補強しなければならない。「昔からある立派な家だから大丈夫」は、震災のたびに否定されてきた。
汗で軍手が濡れ、ほこりが腕に貼りつく
八代では、家の前に出した畳や家具が強い日差しに焼かれていた。
割れた瓦を踏む音、重機の低い音、発電機の音が続く。住民は大声で嘆くわけではない。黙って手を動かし、数分たつと日陰へ入る。水を飲み、また戻る。その繰り返しである。
汗で軍手が濡れ、ほこりが腕に貼りつく。家の中から物を1つ運び出すだけでも、平時の何倍も時間がかかる。
声をかけると、暑さで思うように作業が進まないけど、雨が降る前に、台風が来る前に一定の整理をしなくてはいけないということだった。
被災地の暑さは、被害そのものの一部である。家が残っても、断水と停電で冷房が使えなければ住み続けられない。避難所へ行かず車で寝れば、エアコンのためにエンジンを回し、ガソリンを減らす。切れば眠れない。昼の片付けで消耗し、夜も体が休まらない。翌朝には、前日より少ない体力で同じ作業を始めることになる。
熊本市では私が入る前日の8月3日に40.3度を記録した。4日も36.8度、5日も38.1度だった。
暑さは朝から夜まで続く
屋根のない場所で瓦や木材を運ぶ。断水した家で汗をかく。休めば作業は止まり、無理をすれば倒れる。被災者の動きが鈍いのではない。体を守るために、動けないのである。
水がない中で、飲食店も踏ん張っていた。通常に近い形で営業しているファミレスがあった。水をタンクで貯めておける仕組みがあるようだ。明かりがつき、客が席に座っている。それだけで街が少し戻ったように見えた。
別の店は、通常営業はできず、弁当だけを出していた。調理、手洗い、食器洗い、清掃。飲食店は大量の水がなければ動かない。それでも、出せる物だけは出していた。
その店のトイレは使えたようだが、水に余裕がある様子ではなかった。立ち寄った役所では仮設トイレが置かれていた。役所の建物が立っていても、蛇口から水が出なければ平時の機能は戻らない。
被災地では、トイレが使える、弁当が買える、冷房のある場所で座れるということが、そのまま支援になる。
暑さは、どの現場にもついてきた。イオンモールの周囲でも、倒壊家屋の前でも、店を探して走る車の中でも同じだった。それは朝から夜まで続き、眠りまで奪う。河川氾濫も津波もなかったから楽なのではない。水害がなくても、灼熱だけで復旧は遅れる。
高市首相の現地入りは…
高市首相は8月3日、氷川町の避難所などを訪れた。私は当初、少し早いのではないかと思った。首相が来れば、警備や案内に人手を取られる。被災地の職員には、ほかにやることが山ほどある。
だが、8月4日から現地を回り、考えがほんの少し変わった。避難生活が1週間を超えると、「仕方がない」で耐えてきた人の疲れが表へ出る。水がない。眠れない。片付かない。役所へ相談しても、すぐには答えが出ない。
怒りがたまる前に首相が来て、顔を見せ、話を聞いたという意味では、首相のPRとしては悪くない時期だったのかもしれない。
報道陣も、これから減っていくだろう。倒壊した家が直ったからではない。同じ映像がニュースになりにくくなるからである。被災者が本当に苦しくなる時期と、カメラが最も多い時期は一致しない。
今回の初動は、10年前より整って見えた。病院が無傷で動き、道路も多くが使えた。私が歩いた地域に津波や河川氾濫はなかった。被害の広がりが限られたことは間違いなく救いである。
復旧の手を止めているのは、この容赦のない暑さ
それでも、熊本にいる間、暑さから逃げられた時間はほとんどなかった。クルマのエンジンを切るのは自殺行為だ。ずっとエンジンを入れて、クーラーを最強にしておく。
私のような数日いるだけなら、ガソリン代もさして気にならないだろうが、ずっと生活を続けていかなくてはならない被災者にとって、クーラーのつけっぱなしは手痛い出費になってしまうかもしれない。
冷房の利いた車から降りるたび、熱い空気に押し戻された。取材する側でさえ消耗する。その中で、被災者は壊れた自分の家を片付け、足りない水を運び、夜を越している。
揺れが止まっても、災害は終わらない。今回は、断水と避難生活に灼熱が重なった。建物を壊したのは地震である。
人の体力を奪い、復旧の手を止めているのは、この容赦のない暑さである。
文/小倉健一

