車齢101年、玉電から江ノ電へ嫁ぎ世田谷区宮坂に里帰りした古参車両  投票で決まる塗装色は、懐かしいツートンカラーか、グリーン単色か

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東急世田谷線・宮の坂駅前に隣接する宮坂〔みやさか〕区民センターに展示される1両の電車。玉電の愛称で親しまれた路面電車として活躍したのち、1970(昭和45)年に江ノ島鎌倉観光(→現・江ノ島電鉄)へと嫁いだ今年で車齢101年を迎えた古参車両だ。その後、1990(平成2)年に世田谷区宮坂の地へ里帰りし、すでに36年が経過した。屋外での保存・展示ゆえ、風雨にさらされたその老体は、補修と再塗装(お色直し)を行わなければならないほど疲弊していた。そこで再塗装に向けて、むかし懐かしいカラーリングのなかから、どの塗装色にするかを決める一般投票が、2026(令和8)年8月16日まで行われている。いまから57年前に廃止となった玉電の写真とともに、里帰りを果たした車両の今昔を振り返ることにしたい。

※トップ画像は、廃線の2か月前に撮影された“玉電”の愛称で親しまれた路面電車「東急玉川線」=1969年3月1日、世田谷区玉川、撮影/沢柳健一

江ノ電に嫁いだ路面電車

鎌倉駅(鎌倉市御成町)と藤沢駅(藤沢市南藤沢)とを結ぶ江ノ島電鉄、通称「江ノ電」は、近年、アニメの聖地として知られる“沿線の踏切風景”があまりにも有名だ。古くは会社名を「江ノ島鎌倉観光」と名乗り、1981(昭和56)年からは現在の社名である江ノ島電鉄に改めた。今から56年前の1970(昭和45)年に、東急玉川線から“江ノ島鎌倉観光”へ嫁いできた電車があった。現在、東急世田谷線の宮の坂駅前に保存・展示される電車600形(旧・玉電80形)が、その車両だ。

この電車は、1925(大正14)年に登場し、以後、1969(昭和44)年5月の玉電廃止まで活躍したヨーロッパスタイルを誇った路面電車で、廃線後に独立した世田谷線でも活躍していた車両だ。1970年5月になると、江ノ島鎌倉観光へ4両が売却された。同社では改造ののち、80形から600形へと形式を改めた。カラーリングも玉電カラーから、朱色を基調とした色に塗り替えられ、「赤電」の愛称で親しまれた。江ノ電時代に前面のデザインこそ何度か手が加えられたが、往時の面影を残しつつ、1990(平成2)年まで江ノ電電鉄で活躍した。

廃止を目前に控えた三軒茶屋付近を走る玉電80形電車。そののち江ノ電へと嫁ぐことになるとは思いもしなかったであろう=1969年3月2日、撮影/千代村資夫

江ノ島鎌倉観光に移籍した直後の玉電80形(→のちの江ノ電600形※奥の車両)=1970年5月、極楽寺車庫で、撮影/吉川文夫

昭和60年に「赤電」カラーに復刻した当時の江ノ電600形(旧・玉電80形)=1985年、鎌倉市稲村ガ崎

玉電車両の経歴と前面デザインの変遷=宮坂区民センターに設置される案内板より

里帰りした元・玉電の電車、江ノ電600形

江ノ電へ嫁ぎ20年を迎えた旧・玉電の電車は、1990年4月にお役御免となり現役を引退した。時を同じくして世田谷線宮の坂駅前には、世田谷区の施設「宮坂地区会館(→現・宮坂区民センター)」の建設が計画されていた。ちなみに、駅名は「みやのさか」だが、施設名や住居表示は「みやさか」である。

この建設計画は、街づくりの一環として世田谷線の線路を広場に引き込んで車両を展示しようと目論んだものの、法規的な問題から断念したという。その後、この考え方を踏襲するかたちで、現在の展示スタイルである宮の坂駅に隣接したスペースに電車を展示することになった。

ここに展示される電車が、江ノ電から里帰りすることに決まった経緯は、今となってはわからないという。世田谷区は、江ノ島電鉄から旧・玉電の車両600形電車を無償で譲り受けた。車両の運搬は深夜に行われ、鎌倉市内から第三京浜道路などを通って、1990年7月に現在地へと到着した。

この600形電車601号は、玉電時代は何度かの改番を経て80形87号を名乗っていたもので、里帰りにあたり車両のカラーリングは”江ノ電カラー”から、当時の東急・世田谷線の塗装色であったグリーン単色に塗り替えられた。

江ノ電の線路上からトレーラで搬出される元・玉電の600形電車=1990年7月、鎌倉市七里ガ浜

環状8号線上で点検のため停車する輸送中の元・玉電の600形電車=1990年7月、世田谷区砧公園

宮坂地区会館(当時)に早朝搬入された元・玉電の600形電車=1990年7月、世田谷区宮坂

保存車両の補修・再塗装プロジェクト

宮坂区民センターで旧・玉電車両の展示がはじまってから36年が経過した今、屋外展示であることもあり、風雨にさらされて予想以上に車両の傷みは進行している。この車両は現在も、世田谷区が所有している。過去、2017(平成29)年にも“ふるさと納税”を活用した修復工事を行ってはいるが、老朽化が進んだことを受け、世田谷区では今回、「旧玉電・江ノ電補修・再塗装プロジェクト」を実施することになった。

再塗装の色は、昭和時代の玉電のカラーリング(2種類)のなかから、投票により選ばれることになった。この投票は、2026(令和8)年8月16日まで受け付けており、詳しくは、「旧玉電・江ノ電補修・再塗装プロジェクト」のホームページで案内している。また、併せて修繕費用に充てるための寄付金(ふるさと納税)の募集も行っている。

「旧玉電・江ノ電補修・再塗装プロジェクト」の案内が掲載された世田谷区の広報紙=資料出典/区のお知らせ〔地域版〕2026年6月25日No.2009号より

東急世田谷線宮の坂駅に隣接するように保存・展示される元・玉電の車両で、1990(平成2)年に江ノ電電鉄から里帰りした600形電車=2026年5月30日、世田谷区宮坂

東急世田谷線宮の坂駅と宮坂区民センターに挟まれるように保存・展示される元・玉電の江ノ電600形電車。駅名は“みやのさか”だが、住居表示などは“みやさか”と読む=2026年5月30日、世田谷区宮坂

宮坂区民センターから見た旧・玉電の江ノ電600形電車。風雨にさらされていることもあり、傷みは進行している=2026年5月30日、世田谷区宮坂

なつかしき玉電の風景

玉電(たまでん)は、多摩川で採取した“砂利(じゃり)”を都心部へ運搬する目的で、1907(明治40)年開業した渋谷と玉川(当時→現・二子玉川/世田谷区)を結んでいた路面電車=玉川電気鉄道にはじまる。いつしか「じゃり電」とも呼ばれ、世田谷区民の足として親しまれた。

沿線人口の増加によって、玉電の輸送力に限界が見え隠れした1956(昭和31)年になると、東急電鉄はあらたに玉電玉川線に代わる地下鉄=新玉川線(現・田園都市線の地下鉄区間)の建設を目指した。渋谷から先は、銀座線(現・東京メトロ)へと乗り入れることが検討された。

玉電(玉川線)はその後、東京オリンピック(1964/昭和39年)が行われるころには、自動車の普及が急速に進んだこともあり、道路渋滞の元凶として「ジャマ電」と揶揄されるようになり、廃止がより現実のものとなっていった。1968(昭和43)年には新玉川線の建設が決定し、翌1969(昭和44)年5月11日に玉川線は、支線の砧線とともに廃止された。

いっぽう、道路上を走る線路ではなく、専用の軌道上(鉄道敷地)を走っていた三軒茶屋〜下高井戸間は廃止を免れ、いまも世田谷区民の足「世田谷線」として走り続けている。

この坂を下った先に玉電の渋谷駅があった。将来、高層ビルに囲まれる渋谷駅など想像すらできなかったこの場所には現在、渋谷マークシティが建っている=1969年3月1日、渋谷区道玄坂、撮影/沢柳健一

玉電瀬田〜二子玉川園(当時)間をゆく玉電。現在、この場所には東急田園都市線(旧・新玉川線)が高架橋で走っている=1969年3月1日、世田谷区玉川、撮影/沢柳健一

現在のキャロットタワーが建っているあたりに、玉電時代から続いた世田谷線の三軒茶屋駅はあった。この画像の右にある2階建ての建物には玉電三軒茶屋駅の駅長室があった=1983年12月、世田谷区太子堂

現在の世田谷線にも玉電時代の懐かしい塗装を模した電車が走っている=2026年5月30日、世田谷区宮坂

文・写真/工藤直通

くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元・日本鉄道電気技術協会技術主幹、芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、NPS会員、鉄道友の会会員。

【貴重画像】なつかしい玉電(たまでん)の古写真と里帰りした車両の搬入風景など(15枚)