名将たちの甲子園初出場物語
吉田洸二(前編)

「もう1回やれと言われても、誰もできない。それくらい、あり得ないことだったと思います」

 吉田洸二監督は清峰(長崎)での監督時代を懐かしみながら、顔をほころばせた。

 山梨学院の監督になって14年目。2023年春には選抜優勝を果たし、今やすっかり甲子園の常連監督の趣がある。だが、吉田監督は「もともと生徒指導の手腕を買われるタイプの教員でした」と語る。指導者生活の原点は、公立高校の教員として勤めた長崎時代にある。


2005年夏、清峰高校を初の甲子園へと導いた吉田洸二監督 photo by Nikkan sports

【コツをつかみましたばい】

 長崎県の教員に採用された吉田監督は、まず母校の佐世保商へ。2校目として平戸に赴任した。当時の平戸は学校が荒れており、吉田監督は「学校に停まっている車をひっくり返すような不届き者もいました」と振り返る。

 平戸の野球部は「9回まで試合をしたことがないチーム」だったというが、吉田監督は根気強く指導していた。そんな時、パートナーだったコーチからこう告げられた。

「先生、ピッチャー指導のコツをつかみましたばい」

 コーチの名前は清水央彦(現・大崎監督)。吉田監督にとっては高校野球部の1年後輩で、佐世保商監督時代から指導を手伝ってもらっていた。このふたりの出会いが、長崎の高校野球の歴史を大きく変えることになる。

 清水コーチの指導について、吉田監督は「正直言って、最初は感じるものはなかった」と明かす。だが、清水コーチが技術を探求し、工夫しながら選手を指導する姿を見ていた。清水コーチの「コツをつかんだ」発言以降、明らかに投手が育つようになった。

「今まで130キロを超えるピッチャーなんて預かったことがなかったのに、普通の高校生がどんどんうまくなっていった。秋に佐世保地区の大会で準優勝したのは、本当の奇跡だと思いました」

 吉田監督が生徒の内面や攻撃面を指導し、清水コーチが投手を含めた守備面を指導する。そんな役割分担が明確になり、チームはどんどん強くなっていった。

【無名左腕を変えた育成力】

 そして、2001年に北松南に異動したあとも、ふたりの指導タッグは続いた。北松南でも吉田監督は生徒指導が第一に求められた。「生徒と教師がお互いのエネルギーをぶつけ合っている感じ」と、吉田監督は生徒に向き合った。

 赴任1年目の野球部員の数はわずか9人。普段の授業や練習での指導もあるため、スカウト活動は最低限しかできない。それでも、2003年に学校名が「清峰」に変わったタイミングで、地元の有望な選手たちが入学してくれた。吉田監督は言う。

「たまたま近所の野球が上手な子、運動神経のいい子たちが『あいつが行くなら俺も行こうか』という感じで集まってくれて。全員が軟式野球出身でしたが、これだけの選手が集まったのは奇跡的でした」

 入部した9人のなかには、のちに日本文理大を経由してドラフト1位でプロに進む左腕・古川秀一(元オリックス)もいた。

 ただし、中学の時点で古川が逸材だったかと言えば、吉田監督は首をひねる。

「ストレートの球速は110キロくらいで、強豪校の監督も興味を示さないような存在でした。ただ、カーブのキレはすばらしくて、空振りした右バッターの足にボールが当たるくらいでした」

 古川は清水コーチの指導を受け、目覚ましい進化を遂げる。清峰の代名詞だった、丸太を抱えながらダッシュする地獄のトレーニングも経験している。

 古川の学年は長崎の1年生大会で優勝。翌年にも、有望な選手たちが入学してきた。

 ただし、古川たちの学年はおとなしい選手が多かった反面、1年下の学年は「ヤンチャすぎて私学が取れなかった」と吉田監督が苦笑するほど血気盛んだった。吉田監督は問題児に手を焼きながら、チームを強化。2004年夏には波佐見などを破り、長崎大会決勝に進出している。

 だが、古川が最上級生になり、甲子園出場が期待された秋は地区予選の初戦で敗退。正捕手が骨折し、守備に綻びが出てしまった。春の大会でも2回戦で瓊浦(けいほ)に完封負けを喫し、不安を残した。

 しかし、夏の前哨戦として6月に開催されるNHK杯では優勝。当時は「NHK杯で勝つと、夏は負ける」というジンクスがささやかれていたが、清峰の地力を証明する出来事だった。

【俺は甲子園に行けない監督なんだ】

 運命の2005年夏。清峰は快進撃を見せる。2回戦、3回戦と大量点を奪って快勝すると、準々決勝で長崎日大を相手に10対0でコールド勝ち。吉田監督は「『これはいくな』という雰囲気がありました」と語る。準決勝で波佐見に7対5と競り勝ち、2年連続の決勝戦へと駒を進めた。

 しかし、対戦相手は春に完封負けを喫した瓊浦である。相性のよくない相手に、清峰は序盤から劣勢に立たされる。

 清峰の先発投手が打ち込まれ、3回表を終わった時点で0対7。思わぬ大量失点に、応援スタンドでは一部の保護者が暴れ、罵声が飛び交った。

 この時、ベンチにいる指揮官の胸中はどんなものだったのだろうか。吉田監督は記憶を掘り起こすように、しみじみと語った。

「もう焦りという次元を超えて、ただただ落胆していました。私はもともと何も持っていない人間です。去年も今年も、甲子園まであと1勝に迫っているのに、7点もリードされて。『あぁ、俺はやっぱり甲子園に行ける監督じゃないんだな』と思っていました」

 悲嘆に暮れる吉田監督だったが、選手たちはまだあきらめていなかった。

つづく>>

菊地高弘●文 text by Takahiro Kikuchi