演歌歌手の山川豊(67)はいま、ステージ4のがんと闘いながら芸能活動を行っている。ABEMA的ニュースショーが取材を始めたのは、2025年1月。がんが発覚して、1年3カ月が経ったころだった。定期検診を終えたばかりの山川は、予想とは違って、少し明るい表情だった。

【映像】激しい湿疹も…副作用に苦しむ山川豊(実際の様子)

「血液検査の結果は必ず出るが、何ともない。白血球、赤血球、ヘモグロビン濃度とか、血小板数というのは、Lはちょっと良くない。CEAが腫瘍マーカー。これが今4.8で相当低くなっている。これが78あった」(山川、以下同)

 検査結果が良くなる一方で、「これが薬、すごいでしょ」と見せた大量の薬が山川の命をつないでいた。しかし、予想しないことが襲う。「目にすごい違和感がある。異物感があるような感じ。2週間ぐらい前から突然こうなりだして、そういうのがちょっとでも起きると。脳に近いでしょ、目というのは」。

「完治ではない、薬で延命をしていく」

 がんが見つかったのは健康診断から。肺がん、しかもステージ4だった。

 山川は1958年、三重県鳥羽市生まれ。漁師の父と海女の母をもつ、漁業一家の次男坊。1981年、デビュー曲「函館本線」がロングヒット(日本レコード大賞新人賞)、1986年には「ときめきワルツ」のヒットにより、NHK紅白歌合戦に初出場。デビューから45年、第一線で歌い続けてきた。

 2024年1月に、がんを公表。「『がんの疑いがあるから、すぐ病院に行ってください』と。CTを撮ったら肺がんだと、右の方に。『ステージ4です』と言われまして。頭の方にも飛んで、脊髄の方にも飛んでいまして。『もう手術ができないのがステージ4ですよ』。完治じゃないですね、薬で延命をしていくという事ですね」。

 投薬治療の結果、歌が歌えるまでに回復したことを報告しつつも、がんに侵され、死を意識したことで、「来年も誕生日を迎えられるように、また皆さんの前でこうやってお話ができるように頑張っていきたい」と、締めくくった。

脳や骨に転移…マイクも握れない日々

 肺がんステージ4の5年生存率は、約6〜8%だ(国立がん研究センター)。江戸川病院副院長で、がん薬物療法専門医の明星智洋医師は「肺がんのステージ4は、脳や骨に転移している状況。手術で切って治すとか、放射線で焼いて治すことが難しい。治療法は抗がん剤治療がメインになる。通常想像するような抗がん剤治療は、髪の毛が抜けたり、吐き気がきたり、免疫が落ちたりという副作用を想像すると思うが、実は20年ほど前に分子標的薬というピンポイントでがん細胞だけを狙い撃ちする薬が開発された」と説明する。

 2021年、山川は大手芸能事務所から独立し、個人事務所を設立した。紅白11回の出場を誇る国民的演歌歌手のイメージからすると、少々こぢんまりとしたマンションの一室だ。

「これが口内炎の塗り薬。痛いんだもう。泣きながら飯食っています。水飲めないんだもん、しみてくるから。あと爪がこんなになっていますよ。もうすごいでしょ。爪が変わっちゃったでしょう。割れてきているんですよ。突然こんなのが出てくるんですよ」

 抗がん剤の副作用で、指先があかぎれのようにひび割れる痛みで、マイクを握ることすらできなかった。「洗い物とか、ちょっとぶつけただけでも飛び上がりますよ。痛くて」と、ステロイド系の塗り薬を手に取る。現在がんの進行は小康状態というが、抗がん剤の副作用は大きく、腕には大きな湿疹が。「ずっとこれと付き合っていかないといけない」。これが、がん闘病のリアルだ。

 明星医師は「山川さんに皮膚の症状が出るのは、そこの皮膚を(薬で)攻撃したから。通常の抗がん剤治療との副作用と比べると、圧倒的に副作用は少ない。一方で、患者さんにとったら、通常の抗がん剤治療は体験していないので、楽とはなかなか思えないことも結構ある」と説明する。

きょうだいはショック「『もう死ぬんやな』と」

 楽とは言えないことが、もう1つある。「女房任せだったから、本当に何にも知らない」。独立を決めた翌年、22年連れ添った妻と離婚し、1人マンション住まいに。闘病生活を支えてくれたのは、実の息子だった。「一番心配なのは、坊主と2人でやっていて、(お金を)わからない同士がやっているから」。山川から坊主と呼ばれるのは、長男でマネージャーの隼也さんだ。

 山川の3つ上の姉・畑中奈津枝さんは、がん発症当時のショックが忘れられないという。「1回目の電話で『俺、がんや』って言ったんです。もう私たちは古いから、がんと言うともう死になる。脳にも転移しているし、骨にもと言うから、『もう死ぬんやな』と。もうそれしか頭になかった」。

 一方、妹の城山美穂子さんは、「もう真っ白ですよ、私らも。『何言ってんの?』みたいな。本人も真っ白ですけど、すごくショックで、姉ももう泣いていましたし」と明かす。

 実兄である演歌歌手・鳥羽一郎も、「びっくりしましたよ。いきなりですからね、言葉のかけようないじゃないですか。『ちゃんと精密検査して。それが先決だから』ということを言ったけど、かなり弱気になっていた」と話す。

絶対にがんに負けられない理由があった

 山川を“アニキ”と慕う演歌歌手・徳永ゆうきが楽屋に顔を見せた。「すごいテンポよく焼き肉を焼いてくださる。気づいたら肉が5〜6枚、小皿に乗っていて……」。徳永にとっても、山川の体調は気掛かり。でも笑いを届けたいと、山川の「どういう感じだったの車掌さん」とのフリに、「ご乗車ありがとうございます、終点千葉、千葉です」といったモノマネで返した。

 楽しいひととき。しかし、がん治療薬を飲む瞬間は現実に戻る。「こういう病気をすると、(若者たちが)特に新鮮なんですよね。病気していない時は何か当たり前のように、当たり前に歌ったり、おしゃべりしたりというのはあるけど。病気をすると、それがまた違ってくる。楽しいことがあると、すぐ寂しくなってくる。ちょっと理解できないと思うけど……」。

 山川には、絶対にがんに負けられない理由があった。愛娘の奈津美さんが、晴れの舞台を迎えようとしていたのだ。

 「見せてあげたいというのもあったので、ドレスとか結婚式の姿とか。わからない、こればっかりは。病気もどういう風に進行するのかわからないから、見せてあげたいなと。でもめっちゃ今も元気だからよかった」と、奈津美さんは語る。

 これに長男の隼也さんが「泣いちゃうんじゃないですかね。もう号泣じゃないですか。あんまり泣くというイメージの人じゃないから、どうなるのかイメージがない。ただどうなるのか……という感じ」と返すと、奈津美さんは「バージンロード歩いてる時、どうなるんだろう」と応じた。

 娘への祝福を前に、山川は「まだ大丈夫でしょ。(結婚式の)7月までは、なんとか7月まで持たせないとね」と語っていた。

久々の凱旋ディナーショーで見せた「プロの姿」

 取材から3カ月、山川が挑むのは、地元・三重でのディナーショー。がんを公表してから初めての凱旋(がいせん)で、これまで見せなかった表情だった。地元のファンはどう受け止めてくれるのか、不安は消えない。

 会場ではスピーカーの位置などを確認。実際に席に座り「これだったら大丈夫」と語るなど、プロフェッショナルな姿があった。

 隼也さんは「本当は山川につきっきりが良かったんですけど、こっち側(進行)もやらないといけないので」とのこと。大手事務所とは違い、1人何役も。“坊主”と呼ばれるマネージャーが、父の凱旋を支える。

 がんを患って以来、連続して歌えるのは30分が限界。休憩中は後輩たちがステージをつないでくれる。

 開演1時間前、リハーサルが終わった控室で、満足できない様子の山川を見かけた。「握手ができなくなっちゃったね。楽しみにしてたんだけど。(指先を見つめて)またこれ、手が切れてきている。こういう小さいのがすげえ痛い」。

 ディナーショーでの握手は、重要なファンサービス。マイクはどうにか持てる。でも、ファンとの握手は難しい。「傷口が開いちゃったりするとね……」。髪のセットですら痛みが襲う。「頭にもできてんだよ。ブツブツが」。

生々しい副作用…痛みに耐え、差し出した握手「ステージが一番、最高」

 山川の姿を、ファンは心待ちにしていた。「デビュー当時からです。もうショックでした。でも、きっと治るだろうなと」「びっくりが第1印象です。でも絶対乗り越える方です」。

 しかし、乗り越える壁は、お客さんには見えない。「撮っても大丈夫ですか?」と声をかけるスタッフに、「大丈夫、治った方ですよ」と副作用でたくさんの湿疹が出ている足を見せる山川。山川と隼也さんは「一番最初、抗がん剤やった時、足に全部。すごかった」と返す。

 「黒いのはステロイド。塗り薬が強すぎて黒くなっちゃう」「出ない人もいるらしいんだよね」「2回抗がん剤を中止していて、1週間。その時はすごくひどくて、おしりの方がうんじゃって、よく座るので治らなくて全然。結構大変で」「抗生物質飲んだら、引いて、また出てくる」と説明する。

 薬の副作用なのか、髪の生え方にも変化が出てきた。セットしながら「ぺったんこにしないで。跳ねてるでしょ」と話す。

 痛みという心の葛藤の全てを「山川豊」という衣装で覆い隠し、お客さんの前に向かう。

 会場では、後輩の松阪ゆうきのステージが、すでに始まっていた。そして、ステージに立った山川がこの日の1曲目に選んだのは、デビュー曲「函館本線」。45年間ともに歩んできた代表曲だ。

 子どもの頃、父の曲を全く聴かなかった隼也さんが、初めて父の歌声に触れたのは、アメリカ留学の時だったという。「アメリカ留学1年していた時に、ホームシックになって、なぜか父の曲を聴いた時に、初めて『うちの父親はすごい人なんだな』と思った。そこで歌の上手さだけじゃなく、ちゃんと心が温かくなるような人なんだな、みたいな」。

 30分歌い、しばし休憩。2人だけで次のステージの準備に追われる。ここでも手の状態を確かめる姿が。痛みがひどいのだろうか。

 休憩が終わり、再びステージに上がる。すると客席に降り、ファンと握手をし始めた。痛みがないはずは、ない。でも、これが山川の答えだった。「ステージにこうやって上がって、皆さんの前で歌えるという喜びを、日に日に感じている今日この頃でございまして」。ファンからの「ありがとう」の声に、「こちらこそありがとうございます」と返すと、会場内は拍手に包まれた。

 終演後、山川は「ありがとうございました。病気のことは全然忘れていましたね。やっぱりステージが一番、最高」とつぶやいた。

そして生まれた“新たな命”

 明星医師は「今、日本で年間約100万人の患者さんががんと診断されます。一方で年間でがんで亡くなる患者さんは約38万人。裏を返すと60万人以上の人はがんと診断されても助かっている。決してがんは不治の病ではないという時代が来ている」と話す。

 必要なのは、薬だけではなく生きる力。念願の日、山川は娘とともにバージンロードを歩いていた。

「パパ、小さい頃は仕事で家にいないことが当たり前で、パパっ子だった私は1カ月パパがいないと不安になり、仕事が終わって電話をくれると、余計に悲しくなり泣いている時もあったね。強く優しく笑える家族を目指して頑張ります」(長女の奈津美さん、結婚式でのスピーチ)

 がん発症から3年、山川は新たな命のぬくもりを抱くことができた。孫の誕生だ。「たくさんいいことが起きれば、病気の方もそんなに悪さはしないでしょう」。何かと戦う人たちのために、山川が見せてくれた“生きる力”だ。

(『ABEMA的ニュースショー』より)