年間300体のご遺体を扱う「県で唯一の法医解剖医」がこの道を志した“意外すぎる理由”
法医学者の“お仕事”とは
「ドラマの『アンナチュラル』(TBS系・’18年)にハマり、ウチの医学部に入ってきて、実際にドラマ制作会社に就職した学生もいました。今でも、その作品を観て、やって来る学生は多いので、法医学業界からすると、とてもありがたいです」
そう語るのは、鳥取県内で唯一の法医解剖医として年間約150体、大阪の非常勤監察医として約150体、合計約300体の死体の解剖などの死因究明を行っている鳥取大学医学部の法医学者・飯野守男教授(55)だ。
ミステリー作品やドラマなどでしばしば登場する法医学だが、ふだん接する機会のある一般的な医療に従事する医者と違い、法医学や法医学者について、われわれはほとんど知らないのではないだろうか。
そんな法医学についてのあれこれを飯野氏が書いた『法医学教授が教えている 死体の授業』(飛鳥新社)が売れている。5月26日の発売後、あっという間に重版がかかりすでに6刷。Amazonのカテゴリーランキングでも2部門で1位(7月17日現在)となっている。
改めて、飯野氏に、一般的な医療や医学と法医学との違い、そして死体と向き合う法医学者を取り巻く現状などについて、話をうかがった。
「法医学とは、法律上争いや問題が生じる案件に関して医学的な助言をする学問です。例えば傷害事件、殺人事件、殺人未遂事件等、法律上いろいろと問題となる事案について、その判断をするにあたって、我々が医学の立場から、解決するための助言をします」
具体的に言えば、事件や事故で亡くなった死体、死因の分からない死体の死因究明と身元確認のために“異状死体”の解剖をするのが法医学者だ。
扱うのは生きた人間ではなく、死体。
生きた患者に向き合う外科医や内科医等々、オーソドックスな道に進む選択肢もあったはず。法医学という特殊な分野に進んだのにはどんな思いがあったのだろうか。
“オンリーワン”に憧れた
「私の父は解剖学者で、私の兄2人を含め幼い子供たちに、口癖のように言っていたのは、
『お父さんは医者なんだけど、お前たちを診てやれない。病院に勤めているような普通の医者じゃないから。でも、大学でいろんな研究をして、その成果が出れば、目の前の患者は救えなくても、その代わりに世の中の何千人、何万人の人を救えるかもしれない、そういう研究をしているんだ』
ということでした。幼い頃から、治療もしない医者もいるんだな、ということは、ぼんやりと思っていました」
そんな中学2年生の飯野氏は、たまたま書店の医学書コーナーで『法医学』の教科書と出会う。そこには、轢死体、水死体、腐敗死体などのむごたらしい写真と共に、詳細な解説が添えられていた。あまりにショッキングな内容に、飯野少年は、何ページか見て、すぐに本を閉じてしまったが、帰宅後に「あんな教科書があるのだから、誰かが学んで向き合っているのだろう」「でもそんな仕事はきっと誰もやりたがらないはず」と考えたそうだ。
「私は人と同じことをするのが嫌いな天邪鬼で。法医学をやりたいと父に話すと、反対もせず、さらに『鳥取県には1人しかいない』とも教えてくれました。オンリーワンです。法医学に、ではなく、先ずその希少性に憧れたんです」
実際に法医学者になり、年間300体もの解剖を手掛けていると、もうどんな死体を前にしても平気なのだろうか。亡くなっている死体に対して思いを寄せ、つらくなったりすることはないのだろうか?
「ヒューマニズムがないわけではないですし、学生の頃に、解剖に初めて立ち会ったときには倒れてしまいました。親子の焼死体で子供も真っ黒こげで、『熱くて、苦しかっただろうな……』と、その子の気持ちになってしまったからです。
今ではそういうことは絶対にない。なぜなら、それよりも求められる作業のプレッシャーのほうが強いから。警察から渡される鑑定嘱託書という書類には、私の名前が書かれていて、責任は重大。気分が悪くなってなどいられないのです。死体にプロフェッショナルに向き合うことに必死なのです」
指標となるようなデータがない
飯野氏らが警察から渡される鑑定嘱託書には、「死因」「死因の種類」「死後経過時間」の3つが必ずセットになって求められるという。「死後経過時間」はドラマなどでは「死亡推定時刻」として語られる、お決まりのワードだ。しかし、この「死後経過時間」についてさえ、実は、指標となるデータはなく、法医学者おのおのがそれまでの経験によって判断するものなのだという。
「『死後経過時間』は求められる要素として大きく、後の法的な扱いにも影響するので、とても大事。しかし、人の体格とか、季節とか、室内なのか室外なのか、水の中なのか陸上なのか、砂の中なのか、もう、さまざまな環境要因によって違ってくるのに、データがない。それは長年の課題でもあるのです。
アメリカのテネシー大学では、『ボディファーム(死体農場)』と名付けられた施設で、死体をさまざまな状態の自然の環境に晒して、その後の時間経過による変化を観察するということをしています。日本ではできませんが、それは『死後経過時間』を推定する上で非常に重要なデータです」
法医学は、さまざまな医学的知見を総動員して判断を下さなければならないものだ。新たな試薬や新たな鑑定技術などを学ぶことが必要となるが、そうはいかない事情がある。
飯野氏の法医学教室は、医学生の実習先としては倍率が高く人気だが、実際に卒業後に法医学者としてのキャリアを選ぶ学生は少ないという。全国で考えても、法医学者は現在わずか150人ほどしかいない。慢性的に人が少ないため、多くの法医学者が自身でコツコツと学会に足を運んだり、文献を読んで情報収集をしているのが実情らしい。
「死」を扱うからフィードバックできる知見も
なり手の少ない理由には、「苦労もして、高いおカネを出して医学部に入ったのだから、安定した収入が約束される医者に」という本人や家族の経済的な考えも当然あるだろう。しかし、「医者になったのだから、普通に人を治療する」というような、もっと根本的な考えも大きいのではないだろうか。
確かに、死因を特定するのは、医療行為ではない。すでに起きたものについての判断をする作業だ。しかし、法医学でしか扱わないからこそ、フィードバックできる部分もある。例えば、入浴中の死亡事案。入浴関連の事故死は年間1万9000人ほどで、実は交通事故で亡くなる人数の約7倍に上るそうだ。それだけでも驚きの事実だが……。
「入浴時の死亡原因はヒートショックよりも、実は熱中症によるものが多い。鳥取県で、その数を集計してもらい、行政とも連携して冬の熱中症対策等、警鐘を鳴らす運動もしています。
また、法医学と救急救命とで合同カンファレンスを持ち、実際に、救急救命で救えなかった方について、その担当医が解剖をして、死因から、今後に活かすために救急救命にその情報を還元するという試みも、以前はありました。こんな医療へのフィードバックについては、なかなかないのが現実ですが、当然あるべきだと思います」
法医学は直接の医療行為ではないが、死体から見えてくる事実を、生きている人間の今後の治療や予防医学に役立てるというのは、飯野氏が聞いていた父親の「目の前の人を治療できないかもしれないけれど、多くの人を救えるかもしれない研究をしている」という言葉にも通じるものがあるのではないだろうか。
法医学を志す学生が多くないのが現実の中で、飯野氏はもっと若い世代にも目を向けている。
「法医学については、医師を目指して医学部に入ってから初めて知るより、私が中学2年生で知ったように中高生に知ってほしい。そうすれば、医者ではなくて法医学者を目指して医学部に入ってくれるんじゃないか。そういう若者が出てくることを一番に期待して、この本は非常に平易な言葉で簡単に書きました。私が法医学者を知り、志したのと同じように、この本で若い人に知ってもらえればと思います」
多くの読者が手に取っているこの本は、きっと法医学に関心を寄せる第二の飯野少年を生むことだろう。
