「老後の理想郷」のはずが…〈年金月26万円・退職金2,000万円〉67歳夫婦、移住後に募った焦り
老後の住み替えや地方移住に、憧れを抱く人は少なくありません。自然に囲まれ、生活費を抑えながら穏やかに暮らす。そんな理想を描いても、実際には医療、交通、人間関係、住まいの維持費など、暮らして初めて見える現実があります。
「ここならゆっくり暮らせる」退職金で始めた移住生活
誠一さん(仮名・67歳)と妻の美代子さん(仮名・67歳)は、長年暮らした都市部のマンションを売却し、地方の海沿いの町へ移住しました。誠一さんは会社員として定年まで勤め上げ、退職金は約2,000万円。夫婦の年金は月26万円ほどありました。
「老後は人混みを離れて、景色のいい場所で暮らしたいね」
そう話し合っていた夫婦にとって、移住は長年の夢でした。駅からは少し離れているものの、広い庭があり、海まで歩いて行ける中古住宅を購入。都市部のマンションより価格は安く、「これなら退職金を残しながら暮らせる」と考えました。
移住直後は、毎日が新鮮でした。朝は海沿いを散歩し、庭で野菜を育て、近所の直売所で安い魚や野菜を買う。美代子さんも「空気が違うね」と笑っていました。
しかし数ヵ月が過ぎると、少しずつ不便さが目立つようになりました。買い物には車が必要で、病院も専門科となると隣町まで行かなければなりません。
内閣府『令和6年版高齢社会白書』では、高齢者が住まいや地域の環境として重視するものは「医療や介護サービスなどが受けやすいこと」が最も多く、「駅や商店街が近く、移動や買い物が便利にできること」が続きます。暮らし始めて初めて気づく「生活のしやすさ」は、多くの高齢者が重視するポイントでもあります。
誠一さんはまだ運転できましたが、夜道や雨の日の運転には不安を覚えるようになりました。
家にも想定外の出費がありました。築年数のある住宅だったため、給湯器の交換、屋根の補修、庭木の手入れなどが続きます。近所付き合いも、思っていたより濃いものでした。地域清掃や自治会の役割を断りにくく、都市部で暮らしていた頃とは違う気疲れがありました。
「思ったより、お金が残らないな」
通帳を見ながら、誠一さんは小さく息をつきました。理想の暮らしを手に入れたはずなのに、胸の奥には焦りが募っていました。
「戻るにもお金がかかる」移住後に気づいた老後の盲点
焦りが強くなったのは、移住から2年ほどたった頃でした。美代子さんが足を痛め、通院の頻度が増えたのです。バスの本数は少なく、結局は誠一さんが車で送迎するしかありませんでした。
「あなたが運転できなくなったら、私は病院にも行けないわね」
美代子さんの言葉に、誠一さんははっとしました。移住前は、自然環境や家の広さばかりに目が向いていました。しかし高齢期の暮らしでは、病院、買い物、交通、介護サービスへのアクセスが大きな意味を持ちます。
都市部に戻ることも考えましたが、簡単ではありません。今の家を売却しても、購入時の価格で売れるとは限りません。引っ越し費用もかかり、都市部の家賃は年金生活には重く感じられました。
「理想郷だと思って来たけど、ここで年を取る準備までは考えていなかったな」
誠一さんは、初めて移住を後悔するような言葉を口にしました。美代子さんも責めることはしませんでした。ただ、これからの暮らしを現実的に見直す必要があることは、夫婦ともに感じていました。
そこで二人は、家計と生活動線を整理しました。車の買い替えは見送り、庭の手入れは一部を業者に頼む代わりに、自分たちで管理する範囲を減らしました。通院先についても、近隣で受けられる診療と、都市部の専門病院に行く必要があるものを分けて考えることにしました。
自治体の高齢者向け相談窓口にも足を運び、移動支援や介護保険サービスについて説明を受けました。すぐに介護が必要な状態ではありませんでしたが、制度を知っておくことで、不安は少し和らぎました。
移住は失敗だったわけではありません。海沿いの散歩も、庭の野菜づくりも、夫婦にとって大切な時間です。ただ、老後の暮らしは「好きな場所に住む」だけでは成り立ちません。体力が落ちたとき、車に乗れなくなったとき、医療や介護が必要になったときに、生活をどう支えるかまで考える必要があります。
誠一さん夫婦は、移住生活を続けながら、将来は都市部の賃貸やサービス付き高齢者向け住宅に移る選択肢も残すことにしました。
理想の暮らしを長く続けるためには、夢だけでなく、撤退や変更の余地も含めて準備しておくことが大切なのかもしれません。

