日本人はなぜ「日本人論」が好きなのか?――思想界の泰斗が語る「自家中毒」の理由
SNSでもメディアでも、「日本人とは何か」というテーマは常に人気である。そして、自分たちを知ろうとするとき、私たちはいつもどこかで「外から見た日本」を気にしているようだ。
京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は、新刊『日本人の精神I 権威と空気の構造』(新潮選書)で、日本人が日本人論を好きな理由について考察している。以下、同書から一部を再編集して紹介する。
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【写真を見る】日本人論は、単なる「自分探し」ではない “ある鏡”との関係に起因している
自家中毒的なテーマ
「日本人ほど日本人論が好きな国民はいない」とよくいわれる。確かにそうかもしれない。イギリス人やフランス人から「イギリス人とは何か」とか「フランス人とは何か」などという議論はほとんど聞いたことがない。

これに対して、アメリカ人は比較的「アメリカ人とは何か」を問題にする国民であるが、それは、人為的に構成された国家であり、多民族による移民国家であるというアメリカの成り立ちと深く関わっているからであろう。しかももともと独立した13植民地が合併して国家を形成したアメリカにあっては、「アメリカとは何か・アメリカ人とは何か」は、絶えず確認されねばならない大テーマであろう。
それでは、日本人の日本人論好きはどうしたことであろうか。なぜ日本人は「日本とはどういう国なのか」という、見方によっては何とも自家中毒的であり、多分に自己愛的なテーマに関心を示すのだろうか。人為的国家でもなく、移民国家でもない日本がどうしてこれほど「自己アイデンティティ」に不安を持つのであろうか。これはなかなか興味深い事実ではなかろうか。

「近代化」という「西洋化」
もっとも、そういう私自身、ここで「日本とは何か」をテーマに掲げているのだから、決して他人ごとではない。それは私自身の重要な関心事でもある。
そしてそこには理由がないわけではない。日本の歴史、とりわけ日本の近代史を見ればその理由はすぐにわかる。なぜなら、明治以来の日本の近代国家形成が、常に西洋への意図的な接近という、歴史的にあまり例をみない独自な色合いをおびていたからである。この日本近代史の一大特質は、常に「日本とは何か」という問いを日本人に突き付けてきた。

実は「私は何者なのか」というアイデンティティに関わる問いそのものが、すぐれて近代的な自我意識の一形態である。しかも、そのような自我意識を哲学の領域にまで高めたのが西洋近代社会であった。とすれば、その西洋への接近によって近代社会へ突入した日本人が、「日本人とは何なのか」という奇妙な問いへと誘い込まれたのも当然のことであった。ただただここにいるだけで「日本人だ」という訳にはいかなくなったのだ。
倒錯した視線
その場合、日本の近代化のもつ特殊な構造は、「日本人とは何か」という問いに対してある独特の歪みをもたらすこととなる。それは次のふたつの面で理解することができるだろう。

第一に、事実上、日本の「近代化」とは「西洋化」であった。近代という新たな時代への船出に際して、日本は、常に「西洋」を参照し、航海の羅針盤にした。端的にいえば、日本は西洋並みの国家になるという強い願望に突き動かされていた。
第二に、この「日本とは何か」という問いは、常に西洋との対比において提示されてきた。これは自己意識にとってはかなり深刻な事態である。「日本とは何か」と問うた時、近代の日本人は西洋という他者の視線を借りて、その目に映ずる自己(日本)を見るという羽目に陥った。かなり変則的な事態というほかない。一種の倒錯といってもよい。
反動としての日本回帰
無色透明な鏡に自己像を映しだすのではなく、あくまで西洋という他者が提供する解釈図式に即して自己を見たわけである。わかりやすくいえば、日本人は、「西洋人は日本をどのように見ているか」という西洋の観点から自己像を描き出すわけである。子供が自己像を持つ時期に、親が自分をどのように見ているかという観点から自分を認識するようなものである。
その結果、この倒錯した自己意識はまた、いずれ反動をもたらすことともなった。「日本とは何か」という問いは、西洋という鏡をことさら排除して、日本の独自性を過度に強調するというナショナリズムを生み、それはしばしば過剰な排外的傾向へと日本を駆り立てることにもなった。
明治から昭和の大戦前にいたる日本の知識人の心中に蜘蛛の巣のように糸を張りめぐらせ、その精神生活を深刻な煩悶に陥れていた課題は、まさにこれであった。
日本人論は、単なる「自分探し」ではない。西洋という鏡を通して自分を見てきた近代日本の、いまだ終わらないアイデンティティの危機に起因しているのである。
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※本記事は、佐伯啓思著『日本人の精神I 権威と空気の構造』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。
デイリー新潮編集部
