織田信長の側近として本能寺で命を落とした若き小姓がいた。「美少年」「信長の寵童」として語り継がれ、男色関係があったとも囁かれてきたが、いずれも後世の俗説に過ぎない。彼の実像とは何だったのか。江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く――。

■波紋を呼んだ「森乱」の正体

「森乱」――この耳慣れない名前が少なからぬ波紋を呼んだのは、令和5(2023)年のNHK大河ドラマ「どうする家康」が放送されたときだった。現在放送中の「豊臣兄弟!」にも、歌舞伎役者の市川團子さん演じる森乱が登場予定だ。

『新形三十六怪撰 蘭丸蘇鉄之怪ヲ見ル図』に描かれた森乱。国立国会図書館所蔵

森乱とは、本能寺の変で討ち死にした織田信長の側近・森蘭丸のことだ。彼が生きた時代の書状や文献には「蘭丸」という名は見当たらず、「森乱」「森お乱」、または「乱法師」などと表記されていたため、「どうする家康」から森乱が使われるようになったのである。歴史家のあいだでは知られた名だったが、世間一般には蘭丸が浸透していただけに、驚いた視聴者も多かったようだ。

信長の一代記『信長公記』は慶長年間初期(1600年頃)に成立した文献だが、そこに「森乱」とある。

「天正七年四月十八日 塩河伯耆守へ銀子百枚被遣候 御使“森乱”」(“ ”は分かりやすく伝わるように筆者が入れた)

現代語訳/天正7(1579)年4月18日 (信長が)塩河(しおかわ)(伯耆守(ほうきのかみ))長満(ながみつ)に銀子100枚を下賜する際、使者として森乱を遣わした(塩河長満の娘は信長嫡男・信忠の側室だったとされる)。


「天正十年六月朔日(さくじつ)ときの声を上(あげ)御殿へ鉄炮(てっぽう)を打入候 是は謀叛(むほん) 何成者之企(なにもののくわだて)そと御記之処(おっしゃるところ)に“森乱”申様(もうすよう)に明智か者と見え申候(もうしそうろう)不及是非(ぜひにおよばず)と(中略)御殿之内に討死之衆“森乱” 森力 森坊 兄弟三人」

現代語訳/天正10(1582)年6月1日(2日未明) (誰かが)鬨(とき)の声をあげ鉄砲を打ち込んできた。「謀反か、誰の仕業だ」と信長が聞くと、森乱が「明智の軍勢と見受けます」と答えた。信長は「是非に及ばず」(仕方ない)といった。(中略)御殿内で討ち死にした者に森乱・森力(力丸/森長氏(ながうじ))・森坊(坊丸/森長隆(ながたか))の三兄弟がいた。

■いくつもの名前が登場し、混迷を極めた

天正10(1582)年6月2日未明は、いわずと知れた本能寺の変である。森乱は2人の弟と共に本能寺で果てた。

一方、「森お乱」の名は豊臣秀吉の逸話集『川角(かわすみ)太閤記』〔元和7(1621)〜寛永2(1625)年成立〕に見え、「乱法師」は発給文書などにあるという。

『川角太閤記』。赤枠箇所が「森お乱」。国立国会図書館所蔵

それが、いつ「蘭丸」に変わったのか時期は諸説あるようだが、寛文年間(1661〜1673)には登場していたらしく、以降、次第にその名が定着していったようだ。その結果、18世紀後半の大名・旗本の家譜集『寛政重修諸家譜』には、「長定(ながさだ)(森乱はこう呼ばれることもある) 蘭丸」と、幕府公式の森家系図にも記されるようになっていた。

『寛政重修諸家譜』の森家・長定の章。左に「蘭丸」と補足されている。国立国会図書館所蔵

昔の人の名前は何が正しく、何が俗説なのか、一般人にはわかりづらい。実際、森乱本人は署名の際に「成利(なりとし)」という名を使用しているなど、さらに混迷に拍車をかけている。

だが、今や「森乱」を使用するのが大河ドラマの公式見解だ。

とはいえ、この名が大衆に浸透するには、時間を要するのではないだろうか。

■「蘭丸=美少年説」は後年の創作

なぜ「乱」に、芳しく美しいものの比喩として使われる「蘭(の花)」の漢字をあてるようになったのだろうか――歴史家の乃至政彦氏が、『戦国武将と男色』(ちくま文庫)に興味深い話を書いており、筆者はこれが「蘭」と関連していると思われるので紹介したい。

須永朝彦氏が名著『美少年日本史』(国書刊行会)にて、次の指摘をされている。「(森乱は)江戸も後期になって出た栗原柳庵(くりはらりゅうあん)(故実家)の『真書太閤記』に、漸(ようや)く[生年十八歳、色白くて長高し]という具体的な記述が見られる」

ここから筆者が推測するのは、森乱が「色白くて長高し」、すなわち「美少年」だったとの印象は、『真書太閤記』が刊行された1800年代半ばにはすでに定着していて、その源流が前述の「寛文年間(1661〜1673)には登場していた」にさかのぼるのではないか、と考えられることだ。

そして、この美少年のイメージは現在まで受け継がれ、歴代大河ドラマの森乱(蘭丸)といえば、美形の若手俳優が演じるのが通例となった。

ただし乃至政彦氏は、「信憑性は云々するまでもない」と『美少年日本史』が蘭丸=美しい説に疑問を呈していることを紹介したうえで、氏自身もこの意見に賛同の意を示している。そして、「美しき小姓蘭丸――とするイメージは歴史物の小説や漫画では定番だが、そろそろ退けられるべき俗説であろうと思う」とも述べている。

森乱=美少年は恣意的に創作された可能性が高く、史料から容貌をうかがうことはできない――ファンの夢がまた一つ壊れそうだが、反対に醜男の森乱が登場するドラマや小説など、それはそれで斬新ではないかと、個人的に思える。

■信長との男色関係は根も葉もない噂

美少年説の関連事項として、森乱は信長の「寵童(ちょうどう)」、つまり信長と男色の関係にあったと見る人も少なくない。

だが、二人のあいだに肉体・恋愛関係があったと示す記録など、実はない。

わずかに1800年代前半に刊行された『絵本太閤記』に、「十二才にて仕官す。うつむいて菊の案内する小姓の句の如く信長の御伽をつとめた」との記載があり、この「うつむいて 菊の案内する小姓」が、江戸時代の男色の風俗を詠んだ川柳であることが指摘されている。『絵本太閤記』は信長と森乱が肉体関係にあったことを、ほのめかしているわけだ。

ただし、『絵本太閤記』は“物語”に過ぎない。信長に命じられ、森乱が明智光秀を鉄扇で叩いたなど、真相不明の話が満載なのだから、そもそもフィクションと見るのが妥当だ。

繰り返すが、信長と森乱が男色関係にあったと記した文献は、ないのだ。

『絵本太閤記』所収、鉄扇で光秀を叩く森蘭丸。左はそれを見ている信長。国文学研究資料館/国書データベース

■戦国時代の「男色」のウソ・ホント

戦国武将の衆道については、信長と前田利家、武田信玄と高坂昌信、上杉謙信と直江兼続なども、よく話題となる。しかし、乃至政彦氏によると、少なくともこの3組に関しても「史料の誤読、または江戸時代や昭和の創作によって広まったもの」という可能性が高いという。

例えば信玄の例――信玄が高坂昌信以外の者と浮気して、それを昌信に弁明する言い訳(書状)が残っているとされるが、乃至氏は後世の人々が明らかな読み間違いをしていると指摘し、二人のあいだに恋愛感情があったという説を否定している。ここではスペースの関係で信玄の詳解は省くが、信長と前田利家は「豊臣兄弟!」の主要登場人物でもあるので、氏の見解を紹介したい。

前田利家の言行録『利家公御代之覚書』に、有名な逸話が載っている。

安土城が完成したときの祝いの席での出来事というから、天正7(1579)年の頃だろう。宴には織田家諸将が招かれ、引き出物まで賜った。信長は家臣一人一人に声をかけてこれまでの忠心を労い、利家に対しては「若い頃、我がそばに寝かせ秘蔵したな」といった。

しかし、原文には実はこう書かれているという。

利家様 若き時は 信長公傍(そば)に寝臥(しんが)なされ

現代語に直訳すると「信長のそばで寝ていた」――これを「床を同じくしていた」、つまり肉体関係にあったと解釈する意見が多いのだが、単に寝所の警護を兼ねて、信長のそばで寝起きしていたという意味に過ぎないのではないかと、そのように解釈することもできるというのである。

解釈は人それぞれだろうが、一概に男色関係にあったというスキャンダラスな視点で見ることもないのではないか――と、乃至氏は提言しているのだと思う。そうした見方が必要であることには、筆者も同意する。

■一族丸ごと信長に捧げた「森家」

森乱が生まれた森家の面々と、彼の最期についても書いておきたい。

森乱の父・森可成(よしなり)が織田家に仕えたのは天文23(1554)年頃とされている。桶狭間の戦いや美濃攻略戦などで戦功をあげて金山城(岐阜県可児市)を与えられたが、元亀元年(1570)の宇佐山城(滋賀県大津市)の戦いにおいて、浅井長政・朝倉義景・比叡山延暦寺の連合軍の前に討ち死にする。

可成には6人の男子がいた。長男・可隆(よしたか)は元亀元年の戦いで命を落とし、森の家督は次男・長可(ながよし)が継いだが、彼も天正12(1584)年に戦死する。

森乱は三男で、四男・森坊、五男・森力と一緒に本能寺で没した。このため六男・忠政(ただまさ)が後継となり、のちに美作津山藩(岡山県)の初代藩主となった。

この記事の主人公である森乱は、森坊・森力の二人の弟と共に信長の近くに仕えていたわけで、兄弟3人が同時に近習だったのだから、森家に対する信頼はかなり高かったことがうかがえる。

■信長が見ていたのは、容姿ではなく頭だった

特に森乱は逸話の多い人物だ。あるとき信長が「障子を開けたまま来てしまったから、閉めてこい」といった。森乱が行ってみると、信長の思い違いで障子は閉まっていた。

それを見ていったん障子を開け、わざと大きく音をたてるように閉めた。まがりなりにも信長が「開けたまま来てしまった」といったからには、恥をかかせないよう、皆に障子が閉まる音をあえて聞かせたというのである。

この類のいわば気配りのエピソードが、森乱には多い。多分に話を盛っているだろうが、それだけ信長に尽くす、優秀な人物像を彷彿とさせる。

実際に天正9(1581)年には、17歳で近江国に500石の知行を与えられ、翌年には5万石の城持ちになったとの説もある。その待遇からも、単なる小姓ではない、行政実務に長けた次代の吏僚(りりょう)(官僚)候補だったと見て良いと思われる。

信長はあくまで能力を買って重用した。その抜擢が後世、男色関係にあったかのように曲解された、と考えるのが自然ではないだろうか。

森乱は「美少年の小姓」という従来のイメージを離れ、その実像に目を向ける時期に来ているのかもしれない。

『和漢百物語』に信長と一緒に描かれた森乱はまだ稚児である。国立国会図書館所蔵

参考図書
・谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館、2010年)
・乃至政彦『戦国武将と男色 増補版』(ちくま文庫、2024年)
・太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
・『歴史群像シリーズ20 激闘・織田軍団』(学習研究社、1990年)

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小林 明(こばやし・あきら)
江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表
編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。
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(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)