アカデミー時代を過ごした広島に、大学経由で2014年に加入した茶島。特別なクラブで計11シーズンにわたりプレーした。写真:金子拓弥(サッカーダイジェスト写真部)

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 広島市で生まれた茶島雄介は、小学1年生の頃にサンフレッチェ広島のサッカースクールに入る。同じ街で育った森粼和幸と浩司の兄弟がユースから昇格し、トップチームでプレーする姿に憧れを抱き、ジュニア、ジュニアユース、ユースとカテゴリーを上げていく。

 同期には豊富なタレントがいた。日本代表の森保一監督の長男・翔平とは、ジュニアの頃から出会った仲間だ。ジュニアユースでは中山雄登、ユースでは大崎淳矢、今もクリアソン新宿でプレーする2人とも、一緒にプロの夢を追いかけた。

 この茶島の世代は強く、広島の少年たちの憧れだった。4つ年下の川辺駿は言う。

「チャジ君の世代は抜群に上手かったんで、すごくカッコ良くて、僕たちの目標だった。自分はチャジ君たちを見て育ったんです」

 ユースで最上級生になると、茶島は主将を務めた。世代の中心選手だったが、トップ昇格を果たしたのは大崎だけ。茶島本人は当時を振り返って、自分はいつも追いかける立場だったという。

「自分は全然、特別だったわけではなかった。アカデミーでプレーしていくなかで、どのカテゴリーでも自分より上の存在がいて、そういう人たちを追いかけて努力してきた」
 
 当時、ユースから大学に進学してトップチームと契約を結んだ選手はいなかったが、それでも茶島は夢をあきらめなかった。自分が歩んできた道を振り返り、茶島は少し自負をのぞかせた。

「やっぱり、あきらめずに挑戦し続けることが、大切なんじゃないかなと思う。考えることをやめないことと、挑戦し続けることが今まで自分が大切にしてきたことでもある」

 2014年に広島のクラブ史上初めて大学経由でプロ契約を結んだ選手となった茶島は、先輩たちのプロとしてあるべき姿を見ながら挑戦し続けてきた。

 2012年と13年にリーグ連覇を果たしていたチームの基準が、茶島のプロの基準だ。

「森保監督をはじめ、本当に偉大な先輩方がいて。その人たちのサッカーに取り組む姿勢を見て、自分はプロとは何かというものを学びました。練習で周りに要求する姿、練習が終わればジムで自分の足りないところをトレーニングする姿を見てきたし、アオさん(青山敏弘)はずっとキックの練習していた。あんなに上手い人たちが、まだ成長しようとしている姿にびっくりして、ここまでやるのがプロなんだということを教えてもらいました」

 先輩たちは茶島にとって、高い壁だったことも事実だ。3年目の2016年に出場機会を増やし、17年は森粼浩が背負ってきた背番号7を背負う栄誉にも恵まれたが、このシーズンに思うような結果を残せなかった。

「期待してもらったシーズンだったし、自分もこのチームでどんどんやっていきたいと思っていましたけど、結果を出せなかった。あのシーズンが終わって、自分には力が足りないと思いました」
 
 翌年、茶島は成長を求めて千葉へレンタル移籍することを決め、2020年にサンフレッチェへ戻ってくると、どんな立場に置かれても全力で準備を続けていた。それができたのも、プロ2年目に先輩が見せてくれた姿が脳裏に刻まれていたからだった。

「2015年にヤマさん(山岸智)がベテランとしてチームに在籍していて、そのシーズンは出場機会が少なかったんですけど、シーズンのターニングポイントになったホームの川崎戦で、終了間際に出場してチームの勝利を決定づけるゴールを決める姿を見て、本当にカッコいいなと思った。あの姿を見ていたから、自分もどんな立場に置かれても続けられたんだと思います」

 茶島が続けてきた姿勢を、ユースの後輩たちは目にしてきた。2022年、ミヒャエル・スキッベ監督が就任して茶島は出場機会を大きく減らすことになったが、夏にチャンスが巡ってくると、チームの勝利に貢献した。3−0で勝利した第27節のC大阪戦で、先制点を挙げるなど大活躍を見せた背番号25の姿を見て、大迫敬介はこう語っている。