『トラップ』にみるM・ナイト・シャマランの“唯一無二性” ヒッチコック作品との共通点も
ハリウッドのヒットメイカーかつ鬼才として知られる、M・ナイト・シャマラン監督。その新作『トラップ』は、まさに面目躍如、真骨頂といえる、意外なストーリー展開や“技ありの演出”による、娯楽性や作家性が両立した、多くの観客が楽しめるスリラー作品だった。とくに映画ファンが注目したいのは、シャマラン監督が敬愛する「サスペンスの帝王」アルフレッド・ヒッチコック監督作のテイストを随所で感じさせるところだ。
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ここでは、そんな観客を何度も幻惑しながら楽しませていく本作『トラップ』における、ヒッチコック作品との共通点と、同時にそれを利用しながら、現代においてどのようなテーマを真に掘り起こすに至ったのかを考えてみたい。
舞台となるのは、巨大なエンターテインメント・アリーナ。主演のジョシュ・ハートネットが演じる中年男性クーパーは、そこでおこなわれる世界的ポップスター、“レディ・レイブン”(サレカ・シャマラン)のライブに、彼女の大ファンである娘ライリー(アリエル・ドノヒュー)を連れてきている。学校で良い成績をとったご褒美にステージの間近のアリーナ席を確保してあげるところを見ると、理想的な父親のように感じられる。
しかし、じつはそのライブ、緻密に計画された壮大な“トラップ(罠)”だった。指名手配中の危険な“ブッチャー(切り裂き魔)”がライブを観にきているという情報を手に入れた警察が、会場の聴衆全員を網にかけて犯人を包囲していたのである。
“異変”を感じ取ったクーパーは、ライブ中に席を抜け出して会場を見回ったかと思うと、観客が予想もしなかっただろう、とんでもない行動に出る。この驚きの展開と見事な演出には「あっ!」と、思わず声をあげそうになってしまう観客も少なくなかったのではないだろうか。こういう悪人目線の犯罪を冷徹に描くところがまさに、同様の手法で観客の感情を自由自在にコントロールしていたヒッチコック作品のようである。
そう、この子煩悩に見えるクーパーこそが、じつは警察が追っている“ブッチャー”本人だったのだ。逃げ道をふさがれピンチに陥ったことで彼は、秘密裏に会場からの脱出ルートを確保するべく奔走するのだ。もし、出口に待ち構えている警察の検問を通ろうとすれば、身体的な特徴からクーパーが犯人であることが露見してしまうだろう。捕まらないためには、ライブが終わるまでに警察の張っていないルートを見つけ出すしかないのだ。
M・ナイト・シャマラン監督は、このシチュエーションを、ワシントンD.C.の警察が実際に1980年代におこなった“おとり捜査”、「オペレーション・フラッグシップ」から発想したものだと明かしている。この現実の捜査では、指名手配者3000人をスーパーボウルの試合に招待し、のこのこやってきた100人を超える犯罪者を逮捕したのだという。
本作が興味深いのは、ハートネット演じる人物が、連続殺人犯という感情移入しにくい存在であるにもかかわらず、なぜか警察に追いつめられるシチュエーションにおいて、逃げおおせることを思わず観客が願ってしまうという点だ。これこそ、本作が『サイコ』(1960年)に代表される、ヒッチコック監督のサスペンス映画の特徴を受け継いでいる部分だろう。いかにその登場人物が悪事をなしていたとしても、追いつめられていく流れを周到な演出で主観的に描くことで、観客は悪の側に一時加担してしまうのである。
本作に最も近いヒッチコック監督の作品といえば、『ロープ』(1948年)が思い浮かぶ。殺人をゲームであるかのように楽しむ自信過剰な殺人者が、限定された空間のなかで次第に追いつめられていくという内容の作品だ。本作は『ロープ』の最大の特徴であるワンカット風の演出が見られるわけではないが、一つのシチュエーションのなかで不遜な犯罪者が行動する様をじっくりと描くという点で、シャマラン監督のもう一つのイメージの源泉になったと思われる。
また同時に、クーパーにはなんとなく憎めないと感じる部分もある。警察の包囲網を突破しようとしながらも、娘に不審に思われないように必死に立ち回り、何度も席を離れる言い訳を考える姿は、ある意味で“家庭と仕事”に振り回されている、気の弱い一般的な中年男性のように見えるところもあるのだ。このあたりが一部皮肉なコメディとして笑える内容になっているというのは、シャマラン監督のクリエイターとしての余裕を感じさせる。
そして何より、それを演じるジョシュ・ハートネットのパフォーマンスが見事だ。ときにサイコパス的に、ときに家庭的でコミカルな態度を見せるように、多面的で独創的な殺人者像を体現し、観客の目を楽しませ続けるのである。それはまるで、社会に紛れ潜伏し続けることのできる殺人者というのは、平凡で親しみやすさこそを持ち合わせているという、一つのリアリティを表現したいかのようである。そして、ある場面では消防士役としてせっかく鍛え上げた肉体をも見せつけてくる。
そして劇中では、ハートネット演じるクーパーの主観から、別の登場人物に視点が移っていくという転換を見せることになる。ここは、まさに『サイコ』のように主人公が交代する幻惑的な試みだ。そして、視点が変わることにより途端にクーパーが恐ろしい存在に見えてくるところも面白い。“誰の目で、誰の立場で見るか”という点が作品のカラーを左右するのが、映画の持つ不思議さだといえる。本作は、その部分を自覚的に利用することによって、効果的に観客の不安を高めていくのである。
また、シャマラン監督の娘である、アーティストのサレカ・シャマランが、その交代する視点を持つことになるレディ・レイヴン役で、たくさんの歌を披露し、ブッチャーに追われる切迫した演技を見せている。歌の数々はアルバムとしてサレカ・シャマランの作品となって発売されたように、いささか公私混同のようにも見える構図だが、劇中でちゃんと若年層に人気のある世界的アーティストのように見え、ジョシュ・ハートネットとのやりとりもしっかりとこなしている以上、この点について批判することは難しい。
子煩悩な親による壮大な“家族フィルム”を作っているようにも見えるM・ナイト・シャマラン監督だが、『ザ・ウォッチャーズ』(2024年)で映画監督デビューを果たしたイシャナ・ナイト・シャマラン同様、まだ20代の二人が、それぞれプロとしての才能を早くから発揮し、その枠をはみ出しているというのは、なかなか類を見ないケースだといえるのではないか。
さて、本作で存在感を示し、終盤に近づくにつれてイメージが肥大していく、“ブッチャー”ことクーパーというエキセントリックなキャラクターが象徴しているものは、いったい何だったのだろうか。彼の大きな特徴は、とんでもなく反社会的な行動をとっているのにもかかわらず、しっかりした仕事とあたたかい家庭を持っているというところだ。ただ注意したいのは、家族を愛しているように見せながら、随所で自分を守るための道具にもしているという点。つまり、クーパーの家族への愛情というのは、じつは見せかけなのである。
殺人を快楽として日常的に楽しみたいという異常な願望を持ち、それを実行しながら捕まらないように生活を続けているクーパーにとって、家族の存在は都合の良い隠れ蓑となる。殺人犯から最も遠いところにある、“善良な家庭人”であれば、たしかに捜査の手からも流れやすいはずだ。
本作における、このような構図を見ていて、それを最も恐ろしいと感じるのは、どのような人だろうか。それはやはり、自分が幸せな家庭を築いていると思っている親であり、親の愛情を当然のように信じている子どもなのではないのか。信頼し合っていると思っている家族が、心の底では何を思っているのか分からないというのは、じつはこの世で最も恐ろしいことなのかもしれない。本作の視点が、アリソン・ピル演じる、クーパーの妻の視点に一時移るというのは、まさにその恐怖を際立たせたいがためなのだろう。
多くの社会やコミュニティにおいて、配偶者を持つ、子どもを持つ……すなわち“家庭を持つ”ことは、万人にとっての“幸せ”だとされているところがある。そして、そういったルールや価値観から外れている人は、奇異の目で見られることすらある。だからこそ、そういう価値観を持っていない人ですら、社会的な信用度のためや、周囲の期待に応えるために家族を作る場合があるといえる。
家族を殺人の隠れ蓑にしているようなケースは、さすがに少数だろうが、家族を持つことに心からの価値を感じない人が家族を持っているという場合は、じつは社会に多くある話なのではないか。だから、自分が愛している相手が、じつは表面を取り繕っているだけなのではないかという不安は、かなり普遍的なものだといえるのではないだろうか。本作の居心地の悪さや名状し難い恐さというのは、まさにそのあたりにあるのかもしれない。
そして、そんな彼を最も追いつめていくのが、自分の娘であり、妻であり、女性のアーティストだったという点が、本作『トラップ』の現代的な部分である。それは家庭において、表面的な共感性を見せながらも、自身の感情や都合を優先しようとするエゴイズムを隠し持っている、かつての典型的な“理想の男性像”の欺瞞が、女性たちによって暴かれていく過程を見ているようである。このあたりが、ヒッチコック映画の手法を踏襲しながら、現在の社会を、自分の境遇やライフスタイルをやや自虐的に利用しながら映し出した、いまのM・ナイト・シャマラン監督の“唯一無二性”だといえるのではないだろうか。
(文=小野寺系(k.onodera))