科学者の傲慢さにとうとうブチギレ…自然科学の世界にガチンコの喧嘩を売った人類学者の「覚悟」

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「人類学」という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。聞いたことはあるけれど何をやっているのかわからない、という人も多いのではないだろうか。『はじめての人類学』では、この学問が生まれて100年の歴史を一掴みにできる「人類学のツボ」を紹介している。

※本記事は奥野克巳『はじめての人類学』から抜粋・編集したものです。

将来は科学者か

20世紀から現代に至るまで、人類学の圧倒的なカリスマとして活動するティム・インゴルドがケンブリッジ大学に入学したのは、1966年のことです。それはちょうどベトナム戦争が泥沼化していた時期にあたります。

1954年、アメリカが南ベトナムへの財政・軍事的支援を行ったのをきっかけとして、南ベトナム解放民族戦線がゲリラ戦を開始しました。1964年、北ベトナム軍の哨戒艇が米軍の駆逐艦に魚雷を発射したトンキン湾事件を経て、アメリカは兵力を増強し、戦局は混迷の度合いを深めたのです。

そんな時代に大学に入学したインゴルドは著名な菌類学者の息子として、将来は科学者になるだろうと思われていました。しかし入学以降、インゴルドは科学に対して懐疑心を抱き始めます。その時代は、科学が人々の同意に基づいて平和的に開発されるべきだとする民主的原理から離れていった時期にあたります。科学はまた産業軍事力の巨大機構に従属していたのです。そうした状況に対して多くの学生たちが憤慨したのに、インゴルドも同調しました。インゴルドは科学研究が悪用されていく現実に対して、科学の学会組織が何の責任も果たさないことにも立腹したと述懐しています。

さらにインゴルドを苛立たせたのは、「科学には解決できない問題など何もない」という科学者たちの態度でした。放射能によって健康を害した人間がいるにもかかわらず、その被害さえも科学によって克服できると信じる彼らの傲慢さに、インゴルドは嫌気がさしたようです。

シェリー酒を飲みながら

そのような科学研究の対極にいたのが、人文学の研究者たちでした。しかしインゴルドには、彼らも彼らで独りよがりであるように見えました。図書館や保管された資料の中に頭をうずめたままで、現代の人間の条件を脅かす火急の問題に対応することができていないように思えたのです。

それと同時にインゴルドは、このままでは自然科学と人文学は互いに打ち解けられないと感じていました。当時、自然科学者と人文学者は、ほとんど言葉を交わしませんでした。「お前たちに俺たちの世界が分かるはずがない」と、お互いが接触を持とうとしなかったのです。インゴルドはその分断こそ、西洋の知の歴史の大いなる悲劇であると確信しました。彼はこうした違和感を出発点にして、この2つの伝統を統合した学問を探し始めたのです。自然科学と人文学をどのように一体化させるか。それはインゴルドにとって、自身の研究を貫通する重要な問題意識になります。

そんなことを考えるようになった大学一年生の終わりの頃に、シェリー酒を飲みながらチューターと面談した際に、人類学を専攻するのはどうかと勧められたと言います。インゴルドはチューターの話を聞くうちに、これこそ彼が探していた学問だと思うようになり、人類学の道に足を踏み入れたのです。

さらに連載記事〈なぜ人類は「近親相姦」を固く禁じているのか…ひとりの天才学者が考えついた「納得の理由」〉では、人類学の「ここだけ押さえておけばいい」という超重要ポイントを紹介しています。

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