『虎に翼』©︎NHK
 2024年4月1日から放送を開始した『虎に翼』(NHK総合)が、9月27日に最終回を迎えた。

 戦前、戦中、戦後。ひとりの女性法曹の生き様や本作全体の作品態度を通じて、どれだけの視聴者の考え方がアップデートされたことだろう? 一方で、戦後の激動をまるまる描く後半部は、ちょっと駆け足過ぎたかな。SNS上ではたびたび思想の押し付けだとか、「箇条書き」という批判の意見が散見された。

 イケメン研究をライフワークとする“イケメン・サーチャー”こと、コラムニスト・加賀谷健が、大きく前半部と後半部にわけて考えながら、本作の社会性、政治性、映像表現に奉仕する役割を問いてみたい。

◆社会派と呼ぶべき作品だろうか?

“社会派”という形容がある。筆者はこの形容の使われ方、そしてこの言葉自体があまり好きではない。社会に属していれば、誰もが社会派の側面があるのではないか。どうしてわざわざ社会派と形容する必要があるのか。逆に社会派ではない状態とはいったい、何派なのか。

 戦中に日本初の女性弁護士、戦後には裁判官になった主人公・佐田寅子(伊藤沙莉)の生涯を描き、全130回の放送を終えた『虎に翼』は、社会派と呼ぶべき作品だろうか? ざっくり前半部と後半部にわけて考えてみる。女学校時代から明律大学で法律を学び、戦後に判事となり新潟に異動するまでの前半部は、丁寧な物語の運びとテーマに対する描写力、省略を駆使した映像処理が寸分違わずに的確だった。

 新潟編以降の後半部に関しては、SNS上でも「前半はちゃんとドラマしてたけど後半は箇条書き」などと批判的な意見が多く投稿されているように、判事になった寅子が戦後の社会問題に果敢に取り組む一方、あまりにも駆け足な詰め込み方がどうも気になった。

◆『虎に翼』は政治的かどうか

 現代史の集中授業を受けているような気分になったのは確かだ。同性愛や夫婦別姓、原爆裁判、尊属殺の重罰規定が合憲か違憲なのか等々、社会問題を次々取り上げる作品態度を社会派と形容することは容易に思える(第21週第101回でオープンリーゲイ俳優を起用した社会的意義!)。

 そうした社会性に連動して、本作が政治的過ぎて思想の押し付けだとする見方もネット上ではさかんに言われていた。一般の視聴者から識者までさまざまな意見があったが、中にはエンタメと政治は切り離すべきという暴力的な言い方まであった。

 映像作品に限らず、日本の音楽界でも例えばよくアーティストが政治的発言をすると、すぐに批判の対象になる。批判者はみんな口を揃えてこう言う。音楽に政治を持ち込むな、と。

 でもこれってすごくおかしなことではないか。映像でも音楽でも作り手が世界(社会)に属する限り、作品にはその人が社会をどう見つめ、考えているのか、その思想が意識的、無意識的問わず込められる。特に映像は、恣意的に切り取られたフレーム自体が、たぶんに政治的であり、自ずと社会派的な機能を内在している。

◆一言、言えば済むことを

 直接的なメッセージの有無に関わらず、作品が作品である以上は、当たり前にソーシャルでポリティカルだということ。だから、いちいち、社会派だの政治的だのと議論するのが、そもそも野暮な話なのだ。

 ただし、作品とは作り手のメッセージを語り、伝えるための道具(手段)ではないことも理解しておく必要がある。『虎に翼』の場合、第23週の原爆裁判あたりから、加速度的に問題提起と解決のための議論を繰り返す説明的場面が増えた(尾野真千子によるナレーションしかり)。

 これが後半部に感じる「箇条書き」的で現代史の授業のような印象を強めた。授業のための資料映像ならまだしも、本作はエンタメ的なテレビドラマだ。どれだけ社会的に意義があるメッセージを込めようとも、なるべく慎ましく簡潔に伝える工夫をしなければならない。