宝塚歌劇団でいじめられた、ゲイバーに繰り出した、とぼけ方が一流だった……「永遠のお嬢さま」朝丘雪路の生涯

写真拡大 (全7枚)

日本舞踊で「お嬢さま」は育った

「二人ともあまり可愛がり方が過ぎるようですね。よそさまのめしを食わせるほうがお嬢さんのタメになる。どうでしょう、ぼくがお預かりしましょうか」

赤坂の料亭で、娘の進路を役者・花柳章太郎に相談していた画家・伊東深水にそう告げたのは、同席した阪急東宝グループ創業者・小林一三である。

この刹那、伊東と新橋芸者の間に生まれた加藤雪会の進路は、宝塚歌劇団に決まった。

3人は直ちに、雪会の芸名を考えた。早朝、丘の上に白い雪が降り積もる。その路を美しく歩く女優に育ってほしい-彼らのそんな"文殊の知恵"によって、朝丘雪路は誕生したのである。

舞台稽古で怒鳴られて

'35年に築地で生まれ、3歳頃から日本舞踊を始めた朝丘は、人力車で銀座の泰明小学校に通い、つねに付き添いがいたお嬢さま。

'52年、宝塚歌劇団に入っても別格の扱いを受け、劇団の先輩から舞台衣装を隠されるなどいじめられる。

朝丘、東郷たまみ(洋画家・東郷青児の娘)と'56年に「七光会」を結成した水谷八重子さん(初代・水谷八重子の娘)が振り返る。

「作曲家の服部良一先生の弟子として3人一緒に売り出すことになり、親の七光りが共通点なので『七光会』と名付けました。

でも、宝塚に入ってらした朝丘さんの舞台稽古を見に行ったとき、先輩から『あんたたちのコーラスが遅れてるのよ!』と怒鳴られて、彼女だけは七光りじゃない苦労を知っている人だと感じました」

宝塚退団後、朝丘の苦労は映画やテレビで実を結ぶ。

「天然キャラ」で大ブレイク

「私の胸回りを見てすぐに"ボインちゃん"と呼び、流行語になりました。巨泉さんはすごく頭がよくておもしろくて、私は手を叩いて笑い転げていたら、その天真爛漫さが視聴者に好評でレギュラーに抜擢されました」

生前にそう明かした朝丘が大ブレイクしたのは、'66年、人気深夜番組『11PM』(日本テレビ系)にゲスト出演してからだ。

実に16年も番組のアシスタントを務めている間、プライベートでは様々なことが起こった。

父・伊東のすすめで内科医と結婚し、男児をもうけるも、芸能の仕事を続けるうちにすれ違い、'72年に離婚。

翌年、一緒に巡業していた津川雅彦と結婚するが、長女・真由子が誕生した'74年に、大事件が起きる。

朝丘、津川、お手伝いさんが家にいたにもかかわらず、生後5ヵ月の長女が何者かに誘拐されたのだ。

犯人は電話で身代金を要求し、言われるがままに指定口座に大金を振り込むと、後日、口座から大金を引き出した犯人を警察が逮捕した。

デヴィ夫人が語る想い出

そんな津川・朝丘夫妻と親しかったのが、タレントのデヴィ夫人だ。

インドネシアのスカルノ大統領が、伊東に肖像画を描いてもらいたいとジャカルタの宮殿に招待して以来、朝丘とは50年以上の付き合いだったという。

「雪路さんは編み物が大好きで、私が27歳で娘を出産したときには、真っ白なニットの『おくるみ』をつくって、私の自宅まで届けてくださいました。津川さんとご結婚された後には、3人で銀座で食事したりゲイバーに繰り出しました。

見た目通り、おっとりとした優しい方で、雪路さんは永遠の少女だったんだと思います」

おしとやかに振る舞いながら、'85年、父の十三回忌を機に日本舞踊の新しい流派「深水流」を興した。

「私も『深水流』を学びましたが、花柳流や藤間流などの素晴らしいところを融合させた、華麗で美しいものでした」(デヴィ夫人)

朝丘は'12年、「苦しみや哀しみを抱え込まずに来られたのは踊りがあったからこそ」と振り返っている。

気遣いの人だった

「誰が見ても天然でとぼけているようですが、実は周りの雰囲気がよく見えていて、場をうまく和ませていました。根は賢く、プロ意識が相当高い。長く芸能の世界に身を置いた結果、自分はその空間でどうあるべきかを俯瞰していたんです」

'10年頃から朝丘の姿を撮影してきた写真家の小町剛廣さんが、彼女の魅力をそう語る。

ある撮影時、雨が降ってきたので休憩していたら、朝丘がいきなり踊り始めた。小町さんは「この人は根っから芸能の人なんだと感じつつ、気遣いの人でもあった」と、こんなエピソードを明かす。

「雨の中の撮影で足袋が濡れても、朝丘さんは一言も文句を言わない。撮影が終わったところで、マネージャーに何かボソボソ言う。まもなく彼女がタオルや服を買って戻ってくると、『これに着替えてください』と、僕に渡すんです。

『いや、朝丘さんこそ着替えてください』と言うと、『私は濡れていませんから』と、びしょぬれの姿で言うんです。気を遣ってくれる、そのとぼけ方が一流でした」

小町さんが'15年に撮影したあとは、公の場に出てくることはなかった。体調が悪いことを周囲に隠しており、歌おうにも歌詞がうまく出てこなかったという。'18年、アルツハイマー型認知症を患いながら82歳で亡くなった。

「女優としての才能は天才的でした。雪会は、僕の前でも女優でした」

45年ほど連れ添った津川はそんな弔意を述べた約3ヵ月後、自らも後を追うように天国へ旅立った。

「週刊現代」2024年8月24・31日合併号より

舌がん、中絶4回、タモリの前で胸出し、家賃5万の借家で外界と断絶…女優・塩沢ときの「仰天人生」