「とんでもないクソバンド」がもたらした若き日の契機…ミュージシャン・佐橋佳幸がJ-POPに欠かせない存在となるまで
ギタリストであり、アレンジャー、音楽プロデューサーも務める佐橋佳幸(62)は今なお、業界から引っ張りだこのミュージシャンだ。大ヒット曲への参加は数知れず、2015年にリリースされたコンピレーションCD「佐橋佳幸の仕事(1983-2015)〜Time Passes On〜」にも、小田和正や山下達郎、桑田佳祐、渡辺美里といった名前がずらりと並ぶ。まさにJ-POPの黄金期を作り上げた1人だ。
そんな佐橋は自身を「音楽オタク」と称しつつも、だからこそ「音楽の道をずっと歩いてきたし、今後も歩み続けたい、歩み続けていく」と誓う。ロングインタビュー第1回は、音楽漬けの日々だった中学高校時代と、バンド「UGUISS」でのデビューについて。小6で洋楽にハマった少年はいかにして音楽の道を突き進んだのか?
(全2回の第1回)
***
【写真】永遠の「音楽オタク」佐橋佳幸、20代と現在の笑顔&演奏スタイルを比較
友人の兄に影響されギターを手にする
「小学6年の頃に、『イーグルスっていう新人バンドがチャートを上がってきたぞ』とか言っているような子どもでした」
1970年代の当時、同級生の間でラジオの深夜放送が流行っていたという。ニッポン放送の「オールナイトニッポン」が人気の中で、佐橋少年が聴いていたのがラジオ関東(現・ラジオ日本)の「全米トップ40」。メインパーソナリティだった湯川れい子さんが紹介する当時のヒット曲から、イントロがギターの曲、ギターのリフから始まる曲を好んで聴いた。
「英語の意味も分からずに楽しんでいましたね」
さらにまもなく中学に上がろうかという頃、友人の兄がアコースティックギターで聴いたことのない曲を歌っていた。その人は「今はやりの自作自演だよ」と言った。まだ世に「シンガー・ソングライター」という言葉が浸透していなかった当時、友人の兄は自作のオリジナル曲を歌っていたのだ。「自分もやってみたい」と小遣いやお年玉をかき集め、アコースティックギターを入手した。
小6で洋楽にハマり、さらにギターを始めるとは、いかにも早くから才能を発揮する早熟タイプにも思える。実際、佐橋が後に知己を得るミュージシャンの先輩らは、総じて早くから才覚を現し、10代半ばでデビューするような先達も多かった。その意味では、これ以降の佐橋が歩む音楽の道は、至極当然といえるものだったのかもしれない。
中学生で佐野元春に誘われライブ出演
シンガー・ソングライターという存在に憧れて始めたギターだったが、「そのうちに(歌うより)弾いてることの方が面白くなって」、ギターと音楽にどっぷりつかった中学時代をおくった。同じ趣味を持つ同級生2人を誘い、「人力飛行機」なるバンドを結成。オリジナル曲で「第8回ヤマハポピュラーソングコンテスト」(ポプコン)に応募したところ、中学生ながら地区大会に進出した。
中学生という珍しさもあって、特別賞を受賞。一方、同じ大会でグランプリを獲得し、全国本選に出場したのは、大学生の佐野元春だった。当時から自主コンサートなどを行っていた佐野は、佐橋に興味を持ち、自主コンサートに「出ない?」と誘う。アマチュアの自主コンサートとはいえ、佐橋は中学生にして堂々とステージに上がった。
1976年、東京都で当時、実施されていた学校群制度により振り分けられ 、都立松原高校へ進学。1年秋の文化祭でギター演奏を披露したところ、2学年上の先輩に呼び出された。後のキーボーディストで作曲家、アレンジャーでもある清水信之だった。
「2年に佐藤ってのがいるんだけど、そいつを紹介するよ」
この佐藤とは佐藤永子、後のEPOだった。当時のEPOは同級生とグループを組み、ニッポン放送の「フォーク・ビレッジ」で優勝を経験。曲作りもしていたことから業界内でも噂が立つほどの存在だったという。そこで清水からは「佐藤はほぼデビューが決まっているから、お前、一緒にバンドをやって準備を手伝ってやれ」と言われた。
スタジオミュージシャンとして初めてのギャラ
佐橋はその言葉を守り、EPOがデモテープを録音する際などにギターを演奏した。EPOのバンドには、後のサックスプレーヤー、山本拓夫がベーシストとして参加するなど錚々たるメンバーが集まっていたが、いずれも近隣の高校に通っていた腕自慢。佐橋は「あの頃の東京の学校群制度は、 第二学区の京王線沿線にものすごい人が集まっていたんだな」と改めて驚く。
佐橋はEPOを手伝う活動と並行して、自身がやりたかったロックバンドを結成した。これが後に「UGUISS」としてデビューするバンドの母体となる。すでに当時、キーボードの柴田俊文やドラムの松本淳とともに活動していた。
高3になると、EPOから「去年の文化祭で弾いた通りでいいから、ギターを弾きに来て」と連絡があり、スタジオへ出向いた。EPOのファーストアルバム「DOWN TOWN」に収録された「語愛」(かたらい)という曲のスタジオミュージシャンとして、初めてギャラをもらう仕事となった。
振り返ってみれば、そのままスタジオミュージシャンとして仕事をするという選択肢もあったはずだが、「バンドでデビューしたい」思いが強く、それを目指して奮闘する日々が続いた。
「UGUISS」でついにデビュー
佐橋が組んだバンド「UGUISS」は、当時まだ新しいレーベルだったEPICソニーから1983年9月にデビューした。同期は大江千里、先にデビューしていたのはシャネルズ(後のラッツ&スター)や一風堂など。UGUISSの数カ月後にはTM NETWORKがデビューするというレーベルの黎明期だった。
UGUISSはシングル「Sweet Revenge」、アルバム「UGUISS」でデビュー。翌1984年4月にはシングル「夢を抱きしめて(Cause Of Life)」を発売し、同年暮れにセカンドアルバムを完成させ、発売間近の段階まで来ていた。だが、ボーカルの山根栄子の体調の問題もあり、バンドの継続が難しいと判断。突如解散し、セカンドアルバムの発売も幻となった。
今後の身の振り方を考えた佐橋が相談したのは、高校の先輩である清水とEPOだった。2人は当時、同じ事務所に所属していたことから、佐橋もそこに加わり、改めてスタジオミュージシャンとしての仕事を始めた。当初は清水の仕事を手伝っていたが、そのうちに引き合いが多くなっていった。
その頃、清水に「今度、俺たちの高校の後輩がデビューする。俺が1曲アレンジするから、お前、ギターを弾きに来い」と言われた。都立松原高校で5学年下だったその後輩が渡辺美里だ。同じEPICソニーだったこともあり、セカンドアルバムの「Lovin’ You」のギタリストとして呼ばれた。
「とんでもないクソバンド」に驚愕
その頃の渡辺は、セカンドアルバムの半年前に発売されたシングル「My Revolution」大ヒットしたことから、急遽、全国ツアーが決まっていた。そのサポートバンドに佐橋も入ることになったが、集まったメンバーの演奏を聞いて驚愕する。
「言葉を選ばずに言えば『とんでもないクソバンド』だったんです(笑)。『こんなので金をもらってんのかよ』と思うぐらいのひどさでしたが、内心そうは思っていてもツアーは始まってしまう。初日は札幌市民会館だったんですが、予想通りにひどくて。その1週間後には、東京の渋谷公会堂での2日間公演も待っていました。東京に戻る飛行機の中で、美里のマネージャーとEPICの担当者に『ちょっと生意気言っていいですか? あいつら全員クビにして、違うメンバーでやった方が良くないですか?』と言ったんです」
この話が通り、羽田空港に降り立つやいなや、公衆電話から知っているミュージシャンに電話をかけまくった。UGUISSの柴田らを呼び、佐橋以外のメンバーを全て入れ替えた新たなサポートバンドが結成され、結果的にツアーは大成功した。
これを機に、佐橋は渡辺のサポートバンドを全面的に任されることになり、譜面も全て書き直した。こうした実績から、各方面から声が掛かることが多くなり、スタジオミュージシャン、あるいはアレンジャー、プロデューサーとしての王道を歩むこととなった。
挫折感はあったが「嫌じゃなかった」仕事
バンドが志半ばで解散し、スタジオミュージシャンとしての仕事がどんどん増えていく。スタジオミュージシャンは欠かさざるべき大事な仕事ではあるが、デビューによって表舞台で日の目を見た経験からすれば、地味に映りかねない仕事でもある。
「確かに最初はすごく挫折感がありました。できることは音楽しかないし、やれることがあればいいんだと思っていましたが、そもそも小学生から『全米トップ40』を聞くような子どもで、ロックだけでなく、ポップスや歌ものは大好き。落ち着いて考えてみたら、歌の伴奏でお金をもらえる仕事って嫌じゃないな、と思えて」
スタジオミュージシャンとして、現場でさまざまなアイデアも出してきた。「こういう奏法はどうですかね?」と躊躇せず試しに披露したものが、「お、佐橋君、それいいじゃん」と先輩ミュージシャンらの賛同を得て採用されることも多かった。
「あの当時は、音楽業界も少しずつ変わってきていた時期だったのかもしれません。もともとバンドでの僕は、アコースティックもエレキもどっちもやっていた。ところがスタジオミュージシャンを始めた頃、とある有名ミュージシャンの方に『君か。最近、アコギもエレキも両方やるといって職種を荒らしてんのは』って言われたんですよ。80年代のスタジオ界では、まだアコギとエレキは別の職種だったんですね。そんなこと知らないし、僕はUGUISS時代から両方弾いてたので驚きました」
そんな職種分けがあると聞かされるほど、上下関係にも厳しく、きっちりとしていた業界が少しずつ変わってきていたのだ。いい意味での緩さも出てきて、さまざまな提案をする佐橋の考えを受け入れてくれるような時代になっていたことがありがたかったという。
***
第2回【「TRUE LOVE」のイントロは藤井フミヤの弾き間違いだった…ミュージシャン・佐橋佳幸が明かす“ミリオンヒットが生まれる現場”】では、大ヒット曲にまつわるさまざまなエピソードや、自身のバンドUGUISSの復活について語る。
デイリー新潮編集部