竹内都子、ピンクの電話の転機は獲れなかった“賞金100万円”。掴み損ねても「ラッキー」と言った社長…その理由に「すごい人だ」
お笑いコンビ・ピンクの電話の“みやちゃん”として人気を集め、俳優、声優、リポーターなど幅広く活躍している竹内都子(たけうち・みやこ)さん。
『笑っていいとも!』(フジテレビ系)、『朝だ!生です旅サラダ』(テレビ朝日系)、『ドラマ30 家族善哉』(TBS系)、映画『高野豆腐店の春』(三原光尋監督)、YouTubeチャンネル「みやちゃんねる」などに出演。温泉やお取り寄せについての書籍も出版。
結婚29年目となる俳優・菅原大吉さんとタッグを組んだ夫婦印(めおとじるし)プロデュースの2人芝居『満月〜平成親馬鹿物語〜(改訂版)』(作・演出:水谷龍二)を2024年8月17日(土)の米沢公演を始め、全国5都市で上演する竹内都子さんにインタビュー。
◆大学を2年で中退することに
大阪府吹田市で生まれ育った竹内さんは、小さい頃は引っ込み思案で、いるかいないかわからないような感じの子どもだったという。
「母が言うには、窓から外を見ていて泣いている子どもが通ったりすると、それを見て私も泣いていたそうです。『みやちゃん、どうしたん?』って聞くと『あの子、泣いてんねん』って言って一緒に泣いていたって。知らない子なのに」
――感受性が豊かなのでしょうね。
「何か移りやすいんでしょうね。だから、外をジーッと見て、その子どもが泣いているとか、笑っているのに同調していたらしいです。そやから、今やっているお芝居とかには、どこかつながっているのかもしれません」
――引っ込み思案の性格が変わったのは、いつ頃ですか。
「小学校4年生のとき、近所に藤井さんという女の子が引っ越してきたんです。その子はすごく体も大きくてリーダー的な感じの子で、その子と学校の行き帰りを一緒に行くようになって、そこからかな。何かが変わりました。活発になってすごく変わったような気がします」
――お芝居に興味を持つようになったのは、いつ頃からですか。
「大学に入ってからです。高校のときには全然そんなことは思っていませんでした。ちょっと高校時代に遊びすぎて(笑)。あまり勉強もできなかったんです。
私は高校を卒業したら就職してもいいなあと思っていたんですけど、担任の先生が、『あんたなんか就職先紹介したらへんわ』って言ったので、『できたら4年制の大学に行こうかと思っています』って言ったら、『4年制の大学に受かったら、逆立ちして校庭1周したるわ!』って言うからムカついて、これは絶対入ってやろうじゃないかと思って。
とにかく入れそうな大学を探したんですけど、勉強系は多分もう無理だからと思っていたときに大阪芸術大学を見つけて。デザイン学科とか、美術学科とかはどうかなって思って。今はもうすごい人気で倍率も高いし、声優学科とかいっぱいあるけど、その当時はそんなにたくさんなかったんです。
でも、デザインとかも下手やし、そんなん無理やなあって思っていたら、舞台芸術学科というのがあって。そういうのはそんなにやったことがない人が多いんじゃないかと思って受けたんです。そうしたら合格して、それがきっかけで、お芝居と出会ったみたいな感じです」
――逆立ちしてやるとおっしゃった担任の先生は?
「そんなことを言ったのを忘れたかのように、『良かったな』って(笑)。今考えたら悪い先生じゃなかったんだと思います。そうやってけしかけてゲキを飛ばして、一生懸命やらせようとしたんだと思いますけど、そのときにはやっぱり腹が立つじゃないですか。だから、良かったなとか言われてもね」
――でも、そのおかげで今があるわけですものね。
「そうですね。そのときにはすごく腹が立っていたけど、そのことがなかったら芸大には入ってないですしね」
――大学の授業が始まっていかがでした?
「芸術学科演出専攻だったんですけど、あまりまじめな生徒じゃなかったですね。わりと本気で高校あたりから演劇をやってきた子とかも何人かいるわけですよ。『学校で3年間演劇部でやっていました』というような子は、一生懸命やるんです。
授業でバレエとかもあって、私なんかは『うわーっ』みたいな感じでしたけど、そういうようなちょっと本気じゃない子も結構いっぱい来ていたので、そういう子たちみんなで劇団を作ろうやみたいな風になるわけですよ、若いし(笑)。
大阪芸大の中でも先輩方は、劇団☆新感線とか南河内万歳一座とか、劇団をいっぱい作ってらっしゃったので、自分たちもやろうやとか言って劇団を作ったりして。
でも、今から考えたら、1日だけの芝居をするために1カ月間稽古して。稽古が芝居のためなのか、飲むためなのか…みたいな状態がずっと続くんです(笑)。
でも、やっぱりそれが楽しかったんでしょうね。自分たちで衣装も作って、セットも作って、仕込みとかも全部自分たちでやって…というのがね。やっぱり若かったんですよね。これは楽しいと思って、お芝居をちゃんとやれるようになっていこうと思いました」
――大学は中退されたのですか。
「はい。2年で中退しました。結局普通の4年制の大学みたいに、卒業したら教員の免許が取れるとか、そういう資格があるわけでもないし、卒業したところで何もないわけですよ。だから、もし東京で劇団を受けるんだったら早いほうがいいっていうのが定説になっていて。
みんなわりと早いうちから『文学座を受けた』とか、『劇団四季を受けた』って言って、結構いろんな劇団を受けて外に出て行っていたんです。それで、大学は20歳で辞めたけど、1年間はそのままみんなで作った劇団で活動をしていました」
――大学を中退されるときに、ご両親は?
「それはものすごくいろいろ言われました。大学に入ったときには『まじめにやって、今度こそちゃんと卒業してや』みたいな感じで。芸大の学費も高かったしね。だから、母は『頼むからちゃんと4年間行ってや』とか言っていましたけど、ちょっと大学も遠かったので、途中で挫折して(笑)。友だちの家に泊まって、そこからまた遊びに行ってしまうみたいなことになったりしていましたね」
※竹内都子(たけうち・みやこ)プロフィル
1962年2月5日生まれ。大阪府出身。1984年、劇団七曜日に入団。1986年、清水よし子さんとピンクの電話を結成し、人気を博す。『ザ・テレビ演芸』(テレビ朝日系)、『朝だ!生です旅サラダ』、連続テレビ小説『まんぷく』(NHK)、『グランマの憂鬱』(フジテレビ系)、ドラマ10『燕は戻ってこない』(NHK)、映画『半世界』(阪本順治監督)、アニメ『ドラえもん』シリーズ(テレビ朝日系)のジャイアンのママ役(声)などに出演。『みやちゃんの一度は食べたい極うまお取り寄せ』(ブックマン社)など著書も出版。実生活のパートナーである菅原大吉さんとの2人芝居ユニット「夫婦印」プロデュース『満月〜平成親馬鹿物語〜(改訂版)』の全国5都市での公演が控えている。
◆東京で劇団に入ったものの…
大学を2年で中退後も大阪で劇団の活動を続け、1年後に上京したという。
「22のときに本多劇場の付属の本多スタジオというところに受かって、友だちと一緒に東京に出てきました」
――生活はどのように?
「アルバイトを3つしていました。結局本多スタジオには1年間ぐらい行っていたのかな。同期の人が『都子はな、絶対喜劇が向いているからな、こんなん受けたらいいねん』って、レオナルド熊さんが書き下ろした『鬼ヶ島』のオーディションの記事を見せてくれて自分も受けるって言ったんです。それで私もその劇団を受けて、受かったんですよね」
――そこの同期に菅原大吉さんもいらしたのですか。
「そうなんです。そこで出会って。のちの劇団七曜日の創立メンバーなんですけど、一期生がものすごく人数も多かったんですよね。受けた人もすごい数でした。70人ぐらいいたと思います。
だから、その『鬼ヶ島』という旗揚げ公演のキャストは、ダブルキャストどころかトリプルキャストでした。それは全員じゃないんです。私は、子ども役やったんですね。子ども役が3人いて、その子たちがちょっと昔の遊びとかやりながら、コントみたいなことをやるんですけど、それはトリプルじゃなくて、私たちだけ同じ3人が全公演に出ていたんですよね。
その他のホステス役とかは、ダブルとかトリプルキャストでした。人数が多いから、みんな出さなきゃしょうがないということで。でも、それがどんどんやっぱり減っていくわけですよね。やめていくんです。
元々その劇団は全部鏡張りで立派な稽古場が銀座にあったんです。男女別々の更衣室やシャワールームまであって。それで私たち劇団に入った人間はお金が一切いらないんですよ。『これは一体どこから資金が出てんねやろ?』って思いますよね。
ものすごく羽振りもよくて、作、演出家で呼んできたのがレオナルド熊先生やったりとか。ちょっと不自然なことがいっぱいあったわけですよ。結局、旗揚げ公演をやる1週間前に劇団をやっていたところがダメになっちゃって、制作ももうてんやわんやですよ。
それで、やるかやれへんかみたいなことになったんですけど、1週間前やから、もう今更無理ということになって、とりあえずやったんですよ、ヤクルトホールで。でも、有名な人が誰もいないから旗揚げ公演はガラガラでした。
それが終わったら、もう解散するかみたいなことになったんですけど、旗揚げ公演の作、演出をしたのがレオナルド熊先生だったので、事務所の石井(光三)社長が、『これも何かの縁やから、わしが面倒見る』って言ってくれて。
それまでやっていた仕事を辞めてオーディションを受けて劇団に来た子もいっぱいいるのに、解散でバラけてっていうのはかわいそうだからって。劇団七曜日を預かりという形で、石井光三オフィスが預かってくれたんですよね」
――そのときにはもうお芝居で行こうと思っていたのですか。
「そうです。舞台女優になろうと思っていました。それで、稽古場も銀座の1等地から地下のゴキブリだらけのちっちゃいところに移って、それに伴ってたくさんの人が辞めていったわけですよ。でも、とにかく続けないとあかんって言って。
石井社長はコント赤信号さんとか(レオナルド)熊先生をずっとやってらっしゃったので、やっぱりお笑い関係に強いじゃないですか。それで、その劇団員を集めて大阪出身がいるかと聞かれたので、私とよっちゃん(清水よし子)ともう1人女の子の3人が手を挙げたんですよ。
そうしたら『あんたら今日から“大阪シスターズ”や。大阪漫才やで』って言われて(笑)。そういう感じで何組か強制的にコントグループを作らされて。それで、社長が言うには『あんたらね、女優目指しているかもしれへんけどな、ドラマで一言のセリフをもらうためには10年かかるぞ。10年かかって一生懸命やってもたった一言のセリフをもらえるかどうかや。でも、コントで名前が売れたら6分間は主役やからな』って。
たしかに、漫才はちょっとできないなと思ったんですけど、コントはお芝居に近いじゃないですか。だからコントやったらなんとかネタを作ってできるのかなと思ってやりはじめたのがその大阪シスターズで、のちにピンクの電話となった原型なんですよね」
◆黒電話が突然ピンクの電話に
3人で大阪シスターズを結成したものの、あまり発表の場がなかったため、コント赤信号のライブで衣装替えのときに場つなぎで出ることになったという。
「赤信号さんが新作コントを何本かやるから衣装替えがあって、そのつなぎとしてダチョウ倶楽部さんもそうですし、新人の子をちょっと起用していたんですよね。
それをやるときに(コント赤信号の)リーダー(渡辺正行さん)が、『大阪シスターズはないだろう?名前変えろよ』って言うから、『リーダーつけてください』って頼んだんですよ。そうしたら『わかった、じゃあ付けてやるよ』って言ったんですけど、『忘れていた』とか言ってなかなかつけてくれなくて。
そんなとき、稽古場にあった黒電話が突然ピンクの電話に変わったんです。劇団員って地方出身者が多いから、稽古場の黒電話で田舎にかけちゃうわけですよ。だから電話代が半端なく高くなっちゃって、社長が怒ってピンク電話に変えたんですよ。10円玉を入れないとかけられないようにって。
リーダーもその黒電話で彼女とかにかけていたからビックリしていましたけど、それを見て『じゃあ、お前ら今日からピンクの電話だ』って言って、あっさり決まったんです(笑)」
――ピンクの電話になったときはまだ3人だったのですか。
「はい。そのライブハウスでやったときは3人でした。それで、結構内輪ウケのネタをやったのでウケたんですよ。そうしたら、もう1人の子が『いい思い出ができたから、大阪に帰って結婚するわ』って言って辞めて帰っちゃったんです。それで、私とよっちゃんが残って。
でも、とりあえず『ピンクの電話』という名前ももらったし、一応やることにしたんですけど、発表する場もないから何も活動していないという時期があったんですよね。そういうグループはたくさんあって、結局、発表する場がなかったら練習もしないし、ネタも作らないじゃないですか。
それで、社長があかんと思ったんですよね。ライブハウスで新人コント大会をやるということになって、リーダーが司会で、新作コントを発表する会を作ることになったんですけど、劇団七曜日の中のグループなんか3、4組しかいないし、しかも全員無名だし下手なんですよ。
だから社長が『事務所なんか関係あらへん。どこの事務所の人でもええし、素人でもええから、とにかく出したる』って言ったので、だんだん人数が増えてきて。それが今も続いている『ラ・ママ新人コント大会』の最初だったんですよね」
――ピンクの電話は、わりとすぐに売れたイメージがありますが。
「そうでもないです。OLコントが定着してきてわりと評価も良かったんです。リーダーや放送作家の人も結構来ていて、『やっぱりピンク、さすがだね』とか言ってくれるんですけど、一向に仕事が来ないんですよ。
後輩のチャイルズとか、おきゃんぴーはどんどん仕事が決まっていくんですけど、私たちは全然仕事が来なくて。何か終わりのないマラソンをしているみたいな感じでした。
毎月新作コントをやって、『おもしろかった。さすがピンクだね』って言われるけど、何も仕事がないまま次の日からまた新作を作って、ゴールデン街でバイトして…という毎日が1年くらい続いたかな。
全然ダメだなと思っていたとき、社長が横山やすしさんが司会の『ザ・テレビ演芸』(テレビ朝日系)に勝ち抜きをするコーナーがあって、それに出てみないかって言ったんです。1年やっていたからネタが12本はあるわけですよ。それで出ることになって。前にダチョウ倶楽部さんがその番組で優勝しているんですよね。
それで、9週目まで勝ち抜いて来たときに私たちは知らなかったんですけど、10週勝ち抜くと100万円もらえるということをダチョウさんが教えてくれて。石井光三オフィスは、昔から商品とか賞金は天引きナシで、そのまま全部くれるんです。だから、100万円もらったら、よっちゃんと50万円ずつ分けていいわけですよ。
ダチョウさんに『ピンクは大丈夫だよ、100万もらえるよ』とか言われて、2人とももう何だか浮足立っちゃって(笑)。収録前なのにずっと『何買う?クーラーはいるよね?買おうと思っている』とか『バーゲンも行くよね』って、もう100万は入ったもんだと思って計算していたのに、負けたんですよ。10週目、これで勝ったら100万円っていうときに負けちゃって…。おじゃんになったんです、100万円の夢は。
リーダーに報告したら、『何をやっているんだよ、何で負けたんだ?』ってすごい怒られたんですけど、社長に言ったら、『いや、ようやったな。良かった』って言ったんです。
『10週勝ち抜いたら、勝ち抜いたと思ってそこで終わってしまうやろ。あともうちょっと頑張ったら良かったって思ったときに終われたから、あんたらラッキーや。その気持ちのまま続けていけるやろ。9週ということは、2カ月間のレギュラーが入ったと思えば、それでええんや』って言われたので、すごい人だなって思いました」
◆15キロのダイエットに成功も…
『ザ・テレビ演芸』で9週勝ち抜いたことも注目を集め、ピンクの電話は多くのバラエティ番組に出演することに。『笑っていいとも!』ではダイエット企画にも挑戦。15キロも減量したことが話題に。
「タモリさんが放送中に『もう痩せる気ないだろう?』って言うから、『あります。痩せようと思っているんですよ』って話しているうちに『9号の服が入るようになったらシャネルのスーツを買ってやる』って番組の中で言ったんですよ。それでたかの友梨さんのエステでやることになって、最終的に15キロ痩せました。
あれもやっぱり責任感なのかもしれないけど、痩せないわけにはいかないじゃないですか。視聴者の皆さんも見ているし、期間も決まっているし、たかの友梨さんにも申し訳ないので頑張りました」
――シャネルのスーツをプレゼントされていましたね。
「はい。いただきました。あれは番組が買ってくれるのかと思っていたら、タモリさんが本当に自費で、ポケットマネーで買ってくれたんです。企画としては期間が決まっていたので、無事に終わったんですけど、ちょうど時期的に舞台の稽古がかぶっていたんですね。
たかのさんには、とにかくちゃんと食べてと言われていたんですけど、やっぱりちょっとでも増えるとやばいと思っちゃって、ワカメと豆腐しか食べないみたいな生活をしていたら、舞台の稽古が始まったときに声が出なくなってきたんですよ、大きい声が。
無理をして舞台ができなくなるのは本末転倒やなと思った頃にダイエット企画が終了したので、体力をつけないといけないぞと思って。舞台が終わるまでは体重計に乗らないことにして、とにかく体力を戻すことを第一に考えようと思ったんです。
そこから毎晩焼肉通いが始まったんです。極端ですよね(笑)。うちのマンションの前が焼肉屋なので、稽古が終わったら焼肉屋に行くというような生活になっちゃって。3カ月も頑張ったんやし、これはご褒美やなっていうご褒美が延々と続くことになっていくんですよね(笑)」
――ダイエット企画の翌年、1995年に菅原大吉さんとご結婚されて。
「はい。だから、みんなは痩せたから彼氏ができて結婚したんだみたいな筋書きをしていたみたいですね。結婚したのは95年だけど、付き合って11年でしたから違うんですけどね(笑)」
ピンクの電話としてだけではなく、ドラマ、リポーター、声優などさまざまなジャンルで活躍。公私ともに充実した日々を送ることに。
次回は『ドラえもん』のジャイアンのママ役(声優)、ドラマ初主演作『ドラマ30 家族善哉』の撮影エピソードなども紹介。(津島令子)