斎藤佑樹がリハビリで得た新発見「正しいフォームを求めようとするといい時に近づく」
その1年前には開幕投手を務めた斎藤佑樹は、プロ3年目の2013年、右肩を痛めて静かなスタートを切らざるを得なかった。斎藤が痛めた関節唇とは肩甲骨の上で回る上腕骨の先端が擦れたり緩んだりしないよう、クッションの役割を果たす存在だ。投球動作の繰り返しで関節に負荷がかかると、正しい動きができなくなって関節唇が剥がれたり、ささくれたりする。その軟骨が神経に障ると、痛みを発するというわけだ。
トレーナー、コーチらとともにフォームのチェックを行なう斎藤佑樹(右からふたり目) photo by Sankei Visual
損傷した軟骨は再生することはないと聞きました。つまり、関節唇が完治することはない、ということになります。そりゃ、落ち込むし、気持ちも沈みますよね。ドラフト1位で指名してもらって、2年目には開幕投手も任せてもらって、そのシーズンはリーグ優勝したのにその力になれず、次の年は投げられない......当然、早く戻らなきゃいけないという焦りや責任感はありました。自分で自分にそういうプレッシャーをかけていたと思います。
でも、中垣(征一郎、当時はファイターズのトレーニングコーチ)さんが戻ってきて、いろんなことを勉強しました。たとえば上腕骨が肩甲骨の関節窩のなかで正しい動きをすれば、損傷した関節唇も痛むことはない。だから上腕骨に正しい動きをさせるよう、またそうした関節の緩みが悪化しないよう、肩関節のストレッチや肩周りのインナーマッスルの強化をしよう、とか。同時に、関節唇の損傷を悪化させないような正しい動きをするためのフォームの見直しも欠かせない、とか。まずはそうしたアプローチを中垣さんと模索していくことにしました。
キャンプが始まるまでは、炎症が収まるのをただひたすら待っていました。だから1月は下半身をメインにウエイトトレーニングを続けていましたが、その頃にはもう「これはしばらく投げられそうもないな」と感じていました。
ところが、キャンプ初日の僕の状態を見た中垣さんは「こんなの、全然たいしたことはない」と言ってくれたんです。その言葉はものすごく支えになりました。中垣さんは「地道に感じるトレーニングが毎日毎日、続くことになると思うけど、3カ月の間、ちゃんとやれば必ず戻れるから」と言ってくれました。「3カ月」と言い切ってもらったことで、早く戻らなきゃという気持ちが吹っ切れたんです。僕は中垣さんについていこうと思いました。
キャンプに入って中垣さんが最初に取り組んでくれたのは、痛みの理由を解き明かすことでした。右肩にまだ痛みが残っていると感じるなら「それは関節唇が理由じゃない。もう炎症は収まっているはずだから」と言うんです。中垣さんは、僕の筋肉の動かし方に問題があるんじゃないかと指摘しました。
痛むのが怖いと、どうしても肩がすくんじゃう。そうすると、僧帽筋の上部に力が入ってしまいます。痛みをかばっているせいで僧帽筋の上のほうばかりを使ってしまうと、僧帽筋の下部と肩甲骨の下の筋肉を使わなくなってしまうんです。同時に、僧帽筋の上部ばかりを使うことでそこだけに負担がかかって、疲れてしまっていた。そのせいで肩の痛みが続いていると思い込んでいたんです。
中垣さんが最初、僕に「うつぶせになって」と言って右腕を持ち上げられるかどうかを確かめたのは、それを確認するためでした。僧帽筋と肩甲骨の下部の筋肉が効いていないと腕は上がらない。だからまずは正常なポジションを理解して、腕をこう使うためにここの筋肉をこう動かさなきゃダメだ、ということをもう一度、身体に思い出させる必要があったんです。
今までこんなに野球を一生懸命やってきたのに、じつは身体のことをまったく知らなかったんだなと気づかされました。キャンプの間の1カ月、身体はどう動かしたら正しく動くのかということを、中垣さんやほかのトレーナーさんたちに教えてもらいながら、とことん学び直しました。
【自分だけが置いていかれる寂しさ】3カ月と覚悟を決めたつもりでしたが、それでも不安な気持ちはなかなか拭えませんでした。いつ投げられるようになるだろうという不安と、早く試合で投げたい焦りは簡単には消せません。もちろん暖かくなったらブルペンに入って、夏までには一軍で投げたいと考えていました。
ただ、ずっと野球を続けていくうえで、この1年はいろいろ鍛える期間だと思わなくちゃいけないのかな、とも考えるようになっていました。とにかくあの時は「肩は治る、肩が治ったら以前よりもよくなる」と自分に言い聞かせていたんです。
キャンプの頃は、オフにヒジの手術を受けた小谷野(栄一)さんと励まし合って練習してきました。オープン戦の頃は、左肩を痛めていた宮西(尚生)さんがパートナーでした。小谷野さんは開幕から一軍の試合に出場しましたし、宮西さんも開幕こそ間に合いませんでしたが、すぐに一軍に復帰しました。
だから、3月の末から4月にかけてはちょっと感傷的になりましたね。ああ、そういえば卒業の季節なんだなと(笑)。一緒にリハビリしていた人が一軍で活躍すればうれしいんですが、なんとなく自分だけが置いていかれる寂しさがありましたからね。だから、卒業シーズンだな、なんて思って、卒業の歌を自分で歌っちゃったりしていました。ほら、卒業式で歌う『旅立ちの日に』とか(笑)。
開幕は二軍スタートです。でも5月には二軍の試合で投げました。中垣さんの言葉どおり、2、3、4月の3カ月、地道にやったら5月に投げられるようになった......もちろん急に元に戻るというゼロヒャクの話ではないので、「そろそろ力を入れて投げてみようか」というタイミングを中垣さんは計算してくれていたと思います。
その時「あっ、痛くない」と思えたんです。それまでは肩をすくませて投げていたのに、僧帽筋下部、肩甲下筋をしっかり使って投げられたから、肩のポジションもよかった。中垣さんってすごいなと、あらためて思いました。
【従来のフォームとの訣別】それでも一進一退、投げなければ痛みは出ませんでしたが、投げたあとは痛みなのか張りなのか、イヤな感じは残りました。その原因は、ボールを握った右手が頭から離れるところにありました。できるだけ頭の近くに右手を持ってきて、肩甲骨と胸郭と回すイメージで投げると痛くないことがわかって、そのフォームを身につけようと練習しました。
腕を後ろの方でしならせると痛いけど、前でしならせることができれば痛くない。ボールをリリースする瞬間、どれだけしならせることができるかによってボールのスピードもキレも違ってきます。あの時、それまでのフォームは完全に捨てる覚悟を決めました。
正直、大学3年のあたりから、思いどおりのボールを投げられなくなっていました。その間も、いい時期、悪い時期はありましたが、いつも「今日はよくないんじゃないか」と不安な気持ちで投げていました。よく「いい時のことを思い出せ」と言われますが、いい時に戻ろうとするとうまくいかないんですよ。ならばこの機会に理想的なフォームを身につけようと思いました。
ただ、そこに挑戦していると、自然にいい時と感覚が似てくるから不思議です。戻そうとするとダメだけど、正しいフォームを求めようとすると、いい時に近づく。キャッチャーとの間にラインが出てくるんです。やっぱり、いい球を投げるためには、その感覚が必要なんだと思いました。
6、7月は、二軍のローテーションに入って投げていました。とはいえスピードは出ませんでした。速い球を投げる筋肉の動きには、まだほど遠かったんだと思います。中垣さん曰く、筋肉はビヨーンと伸ばすのではなく、パンッと伸ばすものだから、同じ動きをいかに短い時間でできるかが球を速くする理屈だと......。
でも、僕は思いっ切り筋肉を伸ばすのがまだ怖かったんでしょうね。どこまで後ろに引っ張っていいんだろうと思いながら、痛みが出ているわけでもないのに怖がって、筋肉が伸び切る前に自分で縮めようとしちゃっていた。それじゃ、速い球は投げられません。それができるようになるまでには、まだ時間が必要でした。
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プロ3年目の斎藤はなかなか一軍には戻れなかった。10月のシーズン終了間際になって、ようやく斎藤に一軍での先発機会が与えられた。その初球、斎藤が投じたストレートは128キロ──しかしこの試合、自ら手を挙げてマスクをかぶったファイターズのベテランキャッチャー、中嶋聡が、斎藤の球を受けて、意外な言葉を投げかけてきた。
次回へ続く
斎藤佑樹(さいとう・ゆうき)/1988年6月6日、群馬県生まれ。早稲田実高では3年時に春夏連続して甲子園に出場。夏は決勝で駒大苫小牧との延長15回引き分け再試合の末に優勝。「ハンカチ王子」として一世を風靡する。高校卒業後は早稲田大に進学し、通算31勝をマーク。10年ドラフト1位で日本ハムに入団。1年目から6勝をマークし、2年目には開幕投手を任される。その後はたび重なるケガに悩まされ本来の投球ができず、21年に現役引退を発表。現在は「株式会社 斎藤佑樹」の代表取締役社長として野球の未来づくりを中心に精力的に活動している