佐野海舟が初の日本代表で衝撃を受け、田中碧、守田英正、遠藤航から学んだこと
佐野海舟(鹿島アントラーズ)インタビュー前編
縁のなかった世界に足を踏み入れたことで、自分の現在地を知り、目指す未来も鮮明になった。
追加招集の知らせを聞いたのは、日本代表が2026年ワールドカップ・アジア2次予選を戦うために活動する前日、11月12日の深夜だった。翌日がオフだったため、たまたま起きていた佐野海舟は、鹿島アントラーズのスタッフから吉報を受けた。
「急なことだったので、本当にビックリしました」
気持ちが昂ぶることなく、そのまま「ぐっすり眠れました」と笑うのは、プレースタイルからも感じる豪胆さだろう。
今年11月に初めて日本代表に呼ばれた佐野海舟 photo by Sano Miki
2000年12月30日生まれの22歳。日本代表と名のつくものには、世代別代表も含め、米子北高校時代も、町田ゼルビア時代も呼ばれる機会はなかった。
「子どもの時は試合を見るよりも、自分がプレーすることに夢中でしたけど、日本代表の試合だけは見ていました。それくらい日本代表はずっと自分の夢であり、目標でした。ただ、世代別の日本代表に選ばれにくい年の生まれだったこともあって、日本代表は漠然とした夢というだけで、これまで自分の視野に入れることはありませんでした。
でも、町田や鹿島で日々やってきたこと、積み上げてきたことの延長線上で日本代表に選ばれたと思うと、うれしかったですね。運やタイミングも含めて、そうした日々があったからだと思うので」
J2だった町田から鹿島に移籍し、初めてJ1の舞台を戦った今季、チームを率いていた岩政大樹監督は、リーグ開幕戦から佐野をボランチで抜擢した。
すぐさま持ち前のボール奪取能力と、予測に基づいたインターセプト能力で存在感を発揮し、シーズン序盤の話題をさらった。その活躍に、岩政監督は「代表を目指せという話もしている。それくらいの選手だと思っている」と、当初から期待値を明かしていた。
そうした周囲の期待を感じつつも、本人は足もとを見続けてきた。
「鹿島で自分は何ができるのか、自分のプレーをどう出していくのか。チームのために全力を出そうと考えていたので、周りが期待してくれているのはわかっていましたけど、自分としては、過度に日本代表を意識することはなかったです。
それに日本代表は、自分が行きたいと言って、行ける場所でもない。ましてや自分はJ2からJ1のクラブに移籍したばかり。J1では何も結果や内容を示していない選手でしたから」
いざ、夢でしかなかった世界に飛び込むと、そこには自分の意識を変えてくれる空間が広がっていた。
「同じ国内組の選手たちもレベルは高かった。合流した時は海外組の選手たちの多くはリカバリーのメニューでしたけど、(シリア戦を戦うために)サウジアラビアに行ってからは、みんなで練習する機会もあって、よりレベルの高さを感じました。
『これ』とか『ここ』ではなく、すべての基準が高かった。その基準に合わせてやることができなければ、自分は生き残っていけないと思いましたし、ここに入り続けたいとも思いました。その空間にいられたことで、自分の日本代表への見方も変わりました」
日本代表を率いる森保一監督から、今季の鹿島で示してきたプレーを求められたことも自信になった。
「自分のプレーの特徴について感想を聞かせてくれて、それを代表でも求めていると話してくれました。自分の特徴を最大限に出さなければ、自分がここに存在する意味はない。そう思って、チームのバランスを見つつ、自分の武器で勝負しようと考えました」
2026年ワールドカップ出場を目指してスタートを切った初戦で、出場機会は巡ってくる。佐野は11月16日のミャンマー戦で、後半開始からピッチに立った。
「ベンチから見ていた前半は、アジアの戦いならではの難しさを感じましたけど、相手どうこうよりも、自分たちの狙いや仕留めるべきところで仕留めるプレーの精度が、やっぱり高いなと思いながら見ていました。後半開始から出場することになりましたけど、自分が試合に出る予定がなくても、常に準備はしていたので、緊張することなく試合に入れたと思います」
47分には、相手選手に身体を入れてボールを奪うと、サイドへ展開した。その1分後には、こぼれ球に反応してミドルシュートを放つ積極性も見せた。
「大胆さも必要だと思いましたし、日本代表は何か爪跡を残さなければいけない場所だとも思いました。本当にワンプレー、ワンプレーが勝負だと思っていたので、相手が引いていたこともあって、自分がミドルシュートを打って、相手をおびき寄せることも狙いのひとつでした」
続くサウジラビアで行なわれたシリア戦に出場することはなかったが、日本代表での試合も、練習も、チームメイトとの会話も、すべてが刺激だった。なかでも意識をくすぐられたのは、練習の強度だった。
「技術が高いのはもちろんですけど、自分が驚いたのはプレーの強度でした。ミニゲームや紅白戦も含め、自分が今までやってきたなかで最も高い強度でした。試合の2日前にその強度を出せることに驚きましたし、そのうえで技術的なうまさがあった。プレー強度の差、これはかなり大きいなと感じました」
鹿島もJリーグでは強度が高いことで知られているチームである。
「今季、鹿島に加入して練習の強度や練習の熱量は、今まで自分が感じたことのないレベルでした。でも、日本代表はそれ以上だった。鹿島でも上には上があることを感じましたけど、日本代表で、さらにそれを実感した。自分にとっては大きな経験でしたし、その経験を"ただのいい経験"で終わらせてはいけないと思いました」
さらに同ポジションの選手たちからは、刺激だけでなく、大きな学びを得た。
まずは、ミャンマー戦で同じピッチに立った田中碧(デュッセルドルフ)である。
「ミャンマー戦ではゲームを作る役割を担っていましたが、練習で一緒にプレーしていた時も感じたのですが、攻撃に出ていく力強さと速さがありました。ボランチがゴール前まで走り込んで仕事ができるのは、今の自分にはない部分。ゲームもコントロールできるし、ゲームも作れるし、前に出ていってゴールに絡むこともできる。自分に必要なプレーを備えている選手でした」
ミャンマー戦の67分に途中出場した守田英正(スポルティング)は、前後の関係でプレーしたからこそ実感したことがあった。
「守田くんは本当に何でもできる。さっきまで守備をしていたのに、もうゴール前にいるのかといったプレーが随所にありましたから。
ビルドアップ時のつなぎの役割、その際のポジショニングに加えて、パスの質。ほかには指示も的確で、自分も動かされたというか、言われたとおりに動くと、ちゃんとうまくいくんですよね。まさに、日本代表の選手たちに感じたすべての基準の高さを示していたのが守田くんでした」
遠藤航(リバプール)は、自身が指標として名前を挙げる選手でもある。
「そこにいるだけで周りが安心していることがわかるくらいの存在感がありました。ボランチが周りを落ち着かせるとは、こういうことかというのを自分自身も感じました。
(シリア戦はベンチから見ていても)相手にやられる気がしないというか。うまくいかない時間帯も、航さんがその流れを断ち切っていた。航さんだけに限ったことではないですけど、みんながみんな、試合の大事な局面をわかっていて、その時に何をすべきかを考え、プレーを選択していました」
選手個々が行なう状況判断力や自己解決力は、今季のリーグ戦を5位で終えた鹿島の課題でもある。
「日本代表では、試合中にチームとしてプレーの修正ができるというか。相手がこう来ているから、自分たちはこうやろうといった変化を、試合中に修正、対応できるすごみを感じました。
もちろん、コミュニケーションを取る量や質もすごいし、その場面、場面でいろいろな選手、いろいろな場所で話をして修正して解決していた。しかも、その後のプレーを成功させるところまで到達できるチームでした」
会話の中心になっていたのが、佐野が指標と仰ぐ遠藤をはじめとするボランチだった。
「だからこそ、自分に足りないものや、取り組まなければならないことをわからせてもらったというか。日本代表の活動に参加して突きつけられた課題を、これから自分がどう克服して、どう成長していけるのか。その成長を実感するためにも、選ばれ続けたいと思いました」
日本代表で得たのは刺激だけでなく、自身のプレーも、だった。日本代表の活動を終え、鹿島に戻った直後のリーグ戦から、新たな試みを見せる佐野の姿勢があった。
(後編につづく)
◆佐野海舟・後編>>「昌子源と植田直通から学び、柴崎岳から得たヒント」
【profile】
佐野海舟(さの・かいしゅう)
2000年12月30日生まれ、岡山県津山市出身。2019年に鳥取・米子北高からFC町田ゼルビアに加入。同年5月の水戸ホーリーホック戦でJリーグデビューを果たす。J2で4年間プレーしたのち、2023年に鹿島アントラーズへ完全移籍。同年11月に日本代表に初招集され、W杯アジア2次予選のミャンマー戦でデビューした。3歳年下の弟・佐野航大はファジアーノ岡山を経て現在オランダ・NECでプレー。ポジション=MF。身長176cm、体重67kg。