増井浩俊インタビュー(前編)

 静岡高、駒澤大、東芝というアマチュア球界の名門を渡り歩き、26歳でプロ入りした増井浩俊氏。日本ハムではおもにリリーフとして活躍し、藤川球児氏に次ぐ史上2人目の「150セーブ・150ホールド」を達成。2016年にはシーズン途中に先発に転向し、チームの日本一に貢献。18年からはオリックスでプレーし、現在の強力投手陣に好影響を及ぼした。増井氏に野球人生を振り返ってもらった。


2012年に最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した増井浩俊氏 photo by Sankei Visual

【名門を渡り歩き26歳でプロ入り】

── アマチュア時代の野球環境はいかでしたか。

増井 僕が小学3年の時に、地元である静岡にはJリーグの清水エスパルスとジュビロ磐田が発足して、サッカー熱が高まりました。しかし、我が家は祖父も父も高校球児という野球家系。小学4年で野球を始め、中学時代にノーヒット・ノーランを達成したことがありました。高校は地元の名門である静岡高に進みましたが、在学中は甲子園出場はなし。ちなみに弟はふたりとも、静岡高と静岡商で甲子園に出場しています。僕だけ甲子園に縁がなかったのは残念でした。

── 大学・社会人野球時代はいかがでしたか?

増井 駒澤大では4年間で通算34試合に登板して8勝12敗。大学の1学年下には大島洋平(現・中日)がいました。大学卒業後は東芝に進み、1年目に都市対抗で優勝。その大会で橋戸賞(MVP)を受賞した磯村秀人さんの後釜として投げさせてもらえるようになり、3年目に社会人の日本代表に選ばれました。とはいえ、プロから調査書が届いたのは3球団だけだったので、「ドラフト指名あるかな......」くらいでした。実際、5位指名でしたから。

── プロ1年目は登板した13試合すべて先発で3勝をマークしました。

増井 入団時は梨田昌孝監督で、投手陣はエースがダルビッシュ有で、武田勝さんもいました。ストッパーは武田久さんで、僕の1年あとに斎藤佑樹が入団してきました。入団が26歳と遅めだったので「1年でも長くやりたい」と必死でした。ただ、1年目に挙げた3勝で「プロでやっていけるかも」という自信めいたものが芽生えました。しかし右肩を痛め、その時に吉井理人投手コーチ(現・ロッテ監督)から「短いイニングの登板から復帰していこうか」と提案されました。

── その言葉が、結果的にプロ野球人生のターニングポイントになったわけですね。

増井 ゆくゆくはまた先発ローテーションに戻りたいという気持ちはありました。でも1イニングをしっかり抑えて評価されるという仕事をプロになって初めて任されたわけですが、はまりましたね。結局、プロ2年目は56試合に登板して34ホールドを挙げ、「自分がタイトルを狙えるのは、もしかしたらリリーフかな」と感じました。

── どんなところが「リリーフ向き」だったと自己分析しますか。

増井 球種は最速155キロのストレートとフォーク、スライダーの3種類。先発で6イニングを3点以内に抑えるよりも、短いイニングを全力で投げるほうが性格的にも身体的にも合っていると実感しました。ふだんはあまり熱くなるタイプではないのですが、"二重人格"とでも言うのでしょうか(笑)。マウンドに上がると「打者に負けたくない」と気持ちが強く出てしまう。

【ダルビッシュ有のすごさ】

── ダルビッシュ有投手(現・パドレス)がチームメイトでした。同じ投手として、どういうところがすごかったですか。

増井 ダルビッシュは2歳下なのですが、持っているポテンシャルの高さ、野球への探究心のレベルが違いました。相手打者を攻める投球の組み立てにしても、鶴岡慎也捕手と1試合ごと、場合によっては試合途中でも前向きなコミュニケーションをとっているのが印象深かったです。醸し出すオーラがすごくて、リーダー格の稲葉篤紀さんも大きな信頼を寄せていました。まさに大エースです。

 先発で長いイニング投げてくれたので、中継ぎを挟むことなく、抑えの武田久さんにつなぐこともありました。そんな完投能力の高いダルビッシュが移籍することになり、継投が増えるだろうという意識がチーム内に生まれた気がします。

── そんなこともあって、増井さんは2012年に73試合に登板して、チームはリーグ優勝を果たしました。

増井 栗山英樹監督はどうしたら選手が故障しないか、どうしたらうまく結果を残せるかを考えてくれる"選手ファースト"のマネジメントでした。2012年は73試合に登板して45ホールドをマークして、最優秀中継ぎのタイトルを獲得できたのですが、周囲からは「登板過多」という声もあったと聞きました。でも、自分が必要とされている実感があって本当に楽しかったですし、野球人生のなかでも充実した1年でした。

── 2014年からはクローザーを務めることになります。

増井 大学の先輩でもある武田久さんのあとを継ぐ形となりました。2015年は56試合に登板して39セーブを残したのですが、最多セーブのタイトルを獲得したソフトバンクのデニス・サファテには2つ及びませんでした。

── 増井さんのなかで、目標にしていた投手はいたのですか。

増井 藤川球児さん(元阪神など)です。藤川さんの"火の玉ストレート"と評された真っすぐは、狙っていても当たらないと言われていました。僕もストレートに自信を持っていましたので、藤川さんのような球を投げたいなとずっと思っていました。

── 最終的に史上2人目、パ・リーグでは初となる通算150セーブ、150ホールドの偉業を達成しました。中継ぎと抑えの違いはどういったところだと思いますか。

増井 日本ハム時代は相手が「右打者なら僕」「左打者なら宮西尚生」と役割分担されていました。しかし抑えは、相手が苦手な打者でも、自分の調子が悪くてもマウンドに上がって試合を終わらせないといけない。そういうところにストッパーの厳しさを感じました。抑えをやっていると、先発投手の勝ち星やチームの勝利を消してしまうことがあります。野球人生のなかで一番プレッシャーがかかる時期でした。眠れない夜を何度も経験しました。

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増井浩俊(ますい・ひろとし)/1984年6月26日、静岡県生まれ。静岡高から駒澤大、東芝を経て、09年ドラフト5位で日本ハムに入団。11年に先発からセットアッパーに転向すると、12年には最優秀中継ぎのタイトルを獲得。14年からクローザーを任され、15年は39セーブをマーク。16年はシーズン途中から先発に転向し10勝をマークして日本一に貢献した。17年オフにFA宣言してオリックスに移籍。18年は63試合に登板し35セーブを挙げる活躍を見せたが、20年以降は思うような結果を残せず、22年に戦力外通告を受けた。現役続行を希望していたが、他球団への移籍はかなわず引退を決断した