優勝が決まった試合でもスーパーなプレーが連発された90分でもない。それでも「Jリーグ30年でいちばん記憶に残った試合」というお題ならば、紛れもなくここに行き着く。何とならば、イビツァ・オシムが来日した1年目に自分の名刺を切ったようなゲーム内容。すっかり語録が有名になったが、指導者としてのその本質を知ろうとするのなら、育成から強化、采配に至るまでこのジュビロとの一戦に凝縮されている。それは試合後の会見、いわば広報までコントロールしていた。


2003年から2006年までジェフユナイテッド市原を率いたイビツァ・オシム photo by Ryuichi Kawakubo/AFLO SPORT

 サンフレッチェ広島のGMとして森保一(日本代表監督)をはじめ、幾多の指導者を育て上げ、日本サッカー協会の技術委員として歴代代表監督の評価を下してきた今西和男はかつてこう発言したことがある。

「何人もの外国人監督が来日してくれたけど、日本サッカーの進化に本当に貢献してくれたのは、3人。テッドマール・クラマー、ハンス・オフト、それにイビツァ・オシム。それぞれにタイミングが合った。学生も高校、大学と進学するごとに知見が深まる。その段階での教師との出会いが大事なんだ」

 クラマー、オフト、オシム3人の来日タイミングとは、「メキシコ五輪出場」、「Jリーグ開幕」、そして「W杯自国開催の直後」を指す。

 とりわけオシムが披露した2003年13節の対ジュビロ磐田戦におけるジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)のサッカーは、21世紀を迎えた日本サッカーの紛れもなくエポックとなった試合と言えよう。

 確かこの試合の地上波中継があった。それでオシムのスタイルがJリーグファン以外にも大きなインパクトを与え、一気に認知されたことを記憶している。「自分は、フットボールはラグビーしか観ない」と公言していた楕円球原理主義のような編集者が試合翌日に「たまたまテレビをつけたけど、サッカーがあんなに面白いものだと思わなかった」とメールをしてきた。

 当時のジュビロは最強であった。前年度は26勝3敗1分という圧倒的な強さで前後期を制して完全優勝を成し遂げ、ベストイレブンに7人が選出されていた。2001年からその視野はすでに海外に向いており、開催が予定されていたクラブ世界選手権の初戦の相手レアル・マドリード用に「N―BOX」と呼ばれるシステムで同年はJリーグを席巻している。

 対してジェフはイビツァ・オシムが監督に就任して5か月で劇的に変わっていた。それまで残留争いの常連であったチームを鍛え上げ、この13節を迎える段階で首位に引き上げている。メディアは「オシムマジック」と称え、バジェットのないクラブの選手の奮闘を「平均年俸1400万円の奇跡」、「(前身の)古河電工以来、18年ぶりの優勝か」と煽った。

 オシムと言えば、多色のビブスのトレーニングが有名だが、中長期の強化も視野に入れており、このファーストステージ全体のチームマネージメントですでに画期的な試みを施している。6勝2敗2分の好成績で前半を折り返すと、中断期間の6日間で45分ハーフを12試合行なったのである。試合に臨むメンバーは登録ポジション、年齢、レギュラー、サブ、そういった枠組みを度外視されて構成された。MFの羽生(直剛)がFWに入り、ボランチの阿部(勇樹)がDFに下がる。この2人は先発だが、そこに第三GKの岡本(昌弘)が組み入れられた。これは代名詞とされた走るサッカーの蓄えと同時にポリバレントな選手の育成を目的としていた。複数のポジションに対応すべく練磨された効果はすぐに出た。12節のベガルタ仙台戦はボランチの2人、佐藤(勇人)と阿部を欠いていたが、右サイドハーフの坂本(將貴)とDFの茶野(隆行)をはめ込むと、これが見事に機能し、5―1で快勝したのである。

 直接対決の時点で、ジェフは首位に君臨し、対するジュビロは勝ち点差2でこれを追っていた。ヤマハスタジアムは立錐の余地なく、7月の暑さと満員の人いきれで熱気に覆われていた。大きなプレッシャーに押しつぶされそうな選手を前にオシムは素直に相手の強さを認め、こう言って11人をピッチに送り出した。「ジュビロはJリーグでNo.1のチーム。例え負けても恥ずかしいことではない。自分たちのサッカーをやりぬこう。それで負けてもいい」。残り3試合での首位、アウェー、勝ち点2を追われる立場、初物尽くしの緊張の中で、硬さをほぐされたジェフの選手たちは躍動する。ボールを回されるが、その都度、隙を突いては鋭利なカウンターを狙う。

 先制はやはりジュビロだった。前半27分。名波(浩)のCKを前田(遼一)が繋ぎ、グラウがヘディングで決めた。しかし、ここからジェフのギアが上がった。名波、藤田(俊哉)、服部(年宏)、田中(誠)...、地元静岡の誇る日本代表選手たちによるポゼッションに運動量で対抗、「30分過ぎてからプレーが良くなった」(オシム)。佐藤が、羽生が、湧き出るように後方から次々と前線に飛び出してボールホルダーに襲い掛かる。

 後半開始5分に右サイドを果敢に駆け上がった坂本がエリア内に侵入。ジュビロの10番藤田がたまらずファウルを犯し、PKをゲット。黄色のゴール裏が爆発する。スペクタクルな試合展開の速さと圧の強さに触発されて真夏のスタジアムは沸点に達していた。選手もサポーターも興奮状態の中、ここでひとりだけクールに状況を見ていた男がいた。

 キッカーのチェ・ヨンスは、この凄まじい熱量の中でしれっとチップキックを決めたのだ。GKヴァン・ズワムが左に飛んだその真横をボールはふわりと抜けて行った。これには名将も度肝を抜かれた。「オシムさんもああいう場面でど真ん中に蹴る奴はアホやと言うてました」(祖母井秀隆GM)。開発者であるチェコ人MFの名前を冠したパネンカはGKが動かなければただのイージーボール。大胆極まる同点弾が決まったことで明らかにジュビロには精神的な動揺がもたらされた。

 ここからはジェフが圧倒し出した。落ちることのないハードワークでピッチ上を支配し、30分には、サンドロが逆転ゴールを突き刺した。その後、前田遼一のヘディングで同点に追いつかれるもジェフは最後まで果敢に攻め続け、王者を何度も追い詰めた。ロスタイムには山岸(智)からのクロスが、駆け上がっていたボランチの佐藤の足元に届くも右足にヒットせず試合終了。それでもオシムのサッカーの先進性を証明するには十分すぎる内容だった。

 記憶が鮮明だが、首位を堅持した試合後のオシムの会見がまたウィットに富んでいた。記者の質問をすかし、諫め、最後は通訳までイジって爆笑の渦に巻き込んだ。次節の清水エスパルス戦で0−3の完敗を喫し、優勝は逃すのだが、そのときにこんなことを言った。「日本人は平均的な地位、中間に甘んじるきらいがある。これは危険なメンタリティーだ。周囲に左右されることが多い」今、読み返しても本質を突く警句である。

 終生言い続けていたモダンサッカーに必要とされるポリバレントな選手の萌芽、そしてたった半年で日本人の特性を看破してアウティングした語録の鋭利さ。前後のトピックも含めてオシムを思い出すたびに脳裏に蘇る試合である。