第2代将軍の秀忠は改易や転封を連発した。写真は江戸城桜田門(写真: PhotoNetwork / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第50回は家康死後に秀忠が敷いた、恐怖政治の裏側を解説する。

著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

家康が秀忠に伝えたかったこと

徳川秀忠は、何度か父の徳川家康から叱責を受けている。

最もよく知られているのは、関ヶ原の戦いへの遅参だろう。真田昌幸と信繁の父子が立て籠もる上田城を攻略できずに、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。

激怒した家康は3日にわたって秀忠との面会を謝絶したが、実のところ、遅れてきたこと自体を責めているわけではなかった。家康や秀忠の専属の医者だった板坂卜斎が記した日記『慶長年中卜斎記』によると、大津で家康にようやく会ってもらえたときに、秀忠はこう言われている。

「今回は合戦に勝ったからよかったが、万が一、負けていたならば、弔い合戦となる。それに備えて軍勢をそろえて上ってきたならばまだしも、道中を急いで軍勢をまばらにして上ってくるとは何事か」

遅参そのものよりも、遅れたことで慌てて軍勢をばらばらにして上ってきたことを、戦略ミスとしてとがめているのである。

家康は「大局観を持て」と秀忠に懸命に伝えていることがわかる。秀忠もそれに応えようと、家康の意向に沿いながらも、将軍となるのにふさわしい判断力を磨いていくことになる。

それを象徴する場面が「大坂夏の陣」で勝利したあとの戦後処理である。


大坂夏の陣で勝利した徳川だったが…。写真は激戦地となった茶臼山(写真: PhotoNetwork / PIXTA)

「大坂夏の陣」で徳川の勝利が決まると、大野治長などの豊臣家の家臣たちから、豊臣秀頼の助命を乞われた家康。江戸時代初期に家康の動静を記録した『駿府記』によると、こう伝えたとされている。

「放免しよう、秀忠に聞いてみよう」

だが、秀忠は助命を拒否。非情にも秀頼と母の淀殿に切腹を命じている。この決断には、周囲も驚いたことだろう。だが、秀忠の立場になれば、当然の判断でもあった。

そもそも、この戦いは政権譲渡の仕上げとして、家康が豊臣家滅亡を目論んだものであることは、火を見るより明らかなこと。秀忠は自分に判断を委ねられた意味をきちんと理解して、秀頼に切腹を命じたのだろう。

もちろん、家康としても息子に汚れ役を押し付けたわけではないだろう。秀忠に非情な判断を下させることで、大名たちにこれから政権を担うのは誰なのかを、明確なメッセージとして伝えている。自分が亡きあとの、秀忠と諸大名との関係に思いを馳せたのだ。

そして秀忠もまた、そんな先代のお膳立てに応えながら、自らを脅かしかねない存在の芽を完全に摘むことをやってのけた。

秀忠を駆り立てた「関ヶ原のトラウマ」

もともと秀忠はこの「大坂冬の陣」と「大坂夏の陣」に並々ならぬ意欲を見せていた。父の陰から一歩出ようとする秀忠の姿がそこにある。江戸城を出たとき、家康の事実上の側近である本多正純に書状でこう伝えた。

「大坂城攻めは、私が着くまでお待ちなさるように申し上げてください」

もう関ヶ原のような遅参だけは避けたい、という思いがありありと伝わってくる。秀忠は自分の長女、千姫を秀頼のもとへ嫁入りさせており、彼女も大坂城にいた。

それにもかかわらず、戦意のほうが上回ったようだ。そして真田との戦いに敗れて、大坂冬の陣ではいったん和睦に応じることになると、こう徹底抗戦を主張している(『駿府記』)。

「この程度の城郭がどうして攻め落とせないのでしょうか」

家康は「小敵を見て侮るな」と息子をたしなめながらも、胸中では秀忠にたくましさを覚えたのではないか。秀忠はそれでもおさまらずに、「大御所(家康のこと)は文武の道で天下無双の大将であるのに、ためらうのはおかしい」(『駿府記』)とまで言っている。

秀忠が家康の意をくみながらも、自分の最終判断で、秀頼親子を死に追いやったのも、やや危うさを感じるほどの熱意の延長だったのだろう。

自分だってやれる――。そんな思いは家康の死後、加速していくことになる。

大名の改易や転封が相次いだ

元和2(1616)年4月17日、家康は75年の生涯に幕を閉じる。約3カ月前の元旦に、秀忠は江戸城黒書院で、次男で11歳の家光を自分の左側に座らせた。跡継ぎを家光とするというメッセージである。

秀忠ばかりか、その次の代まで徳川家が承継する道筋を立てられて、家康としても安心して、あの世に旅立てたことだろう。

いよいよ秀忠が自由に采配を振るうことになった。家光に将軍を譲る元和9(1623)年までの7年間が「秀忠の時代」だ。そこに秀忠の本来の姿が凝縮されている。

これまでは「何事も大御所様の仰せのままに」といっていた秀忠がやったこととは、何か。目立って多かったのが、大名の改易や転封である。つまり、大名の領地を没収したり、領地をほかに移したり、ということを何度も行ったのである。

家康の死からわずか3カ月後に、秀忠は自身の弟、松平忠輝に伊勢の朝熊へ移るように命じた。また甥の松平忠直も豊後の萩原へと流している。処分は外様大名にも及び、秀忠は安芸広島藩主の福島正則も「無断で広島城を築城した」という理由で改易してしまう。

だが、豊臣系大名の重鎮である正則まで改易してしまえば、当然のことながら波紋も大きい。このままでは大名間に亀裂が入りかねない。そう考えて「正則の改易はやりすぎではないか」と秀忠を諫めた人物がいた。本多正信の子、正純である。

家康との二元政治では、秀忠のもとに、政治力の優れた本多正信がお目付け役として付けられたことは連載ですでに述べたが、そのときに正純は家康のもとに置かれた(記事参照「天皇激怒『宮中震撼させた女性問題』家康の対応力」)。

家康に長く付いていた正純からすれば、秀忠をリーダーとして正しいほうへ導かなければ、と考えたのかもしれない。正純は家康にも異論を唱えることがあり、そのことが一層家康からの信頼を厚くした。

口出しをしてくる家臣を嫌った

だが、秀忠が最も嫌うのは、先代と自分を比べているかのように、そういう口出しをしてくる家臣である。

どいつもこいつも自分を軽んじている――。秀忠の怒りは収まらず、正純も遠国へと流してしまう。処分を下す際に、秀忠がよく使った言い回しはこれである。

「御奉公然しかるべからず」

働きぶりが不十分である――。何とも漠然としているではないか。要は気に食わないということだろう。

その代わりに、酒井忠世や土井利勝を老中として側近に固めた秀忠。少しでも歯向かう可能性のある大名は片っ端から、改易や転封を行い、自らの地位を盤石なものにした。

ただし、そんな臆病な秀忠だからこそ、江戸幕府の基礎固めが行われたのも、また事実である。元和9(1623)年、秀忠は将軍の座を次男の家光に譲り、父と同じように大御所として権勢を振るうのだった。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
福田千鶴『徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』(新人物往来社)
山本博文『徳川秀忠』(吉川弘文館)

(真山 知幸 : 著述家)