清原和博はデストラーデにヤキモチ 石毛宏典が明かす西武「AKD砲」のライバル関係
オレステス・デストラーデ 後編
(前編:デストラーデは1年目、83試合で32本塁打「これはすごい選手が来た」>>)
両打ちのホームランバッターとして、西武黄金時代の後期(1989〜1992年)に活躍した"カリブの怪人"オレステス・デストラーデ氏。石毛宏典氏がデストラーデ氏とのエピソードを語る後編では、同氏のバッティングや最強クリーンナップ"AKD砲"のすごさについて聞いた。
黄金時代の西武でクリーンナップを担った(左から)秋山幸二、清原和博、デストラーデ photo by Sankei Visual
【相手チームにとって脅威のAKD砲】
――デストラーデさんは、NPBのスイッチヒッターとして史上最多の本塁打王3回を獲得するなど、西武に入団した当初から目覚ましい活躍を見せました。石毛さんから見たバッティングのすごさは?
石毛宏典(以下:石毛) 体は大きかったけど、ピッチャーに威圧感を与えるような迫力のある構えではなかった。それと、力感がなくてテイクバックがちょっと小さめで、踏み込んでいく時にグリップが体から離れず、体の近くを通るんです。なので、一瞬コンパクトに振っているように見えるけどヘッドが走る。だから打球がよく飛びましたね。
無駄な肉があまりなくてアスリート体型を維持していましたし、しっかりと自己管理もできていたんじゃないかな。一度西武を退団して1995年に戻ってきた時は、太ってしまっていたけどね。
――3番の秋山幸二さん、4番の清原和博さん、5番のデストラーデさんで形成されたクリーンナップ"AKD砲"は強力でした。石毛さんはその後の6番を打つことも多かったですが、3人をどう見ていましたか?
石毛 客観的に評価するのは難しいですが、やはり球史に残るクリーンナップと言えるでしょう。秋山は身体能力がすごかったし、ボールを飛ばす技術に長けていた。盗塁王も獲ろうと思えば獲れたでしょう。
後ろにキヨ(清原和博)がいるから秋山と勝負せざるを得ないし、さらにキヨの後ろにはオーレ(デストラーデ氏の愛称)がいた。秋山やキヨがフォアボールで出塁した後、オーレがホームランを打ったりね。相手ピッチャーにとって相当な脅威になっていたはずです。
【6番を打っていた頃の石毛は「必死だった」】――秋山さん、清原さんがよく出塁することもあって、デストラーデさんは打点を稼いでいましたね。1990年、91年と2年連続で打点王に輝いています。
石毛 そういえば、秋山か......キヨだったかな?「お前が打点をたくさん挙げられているのは、俺たちが歩かされるからだ。いいとこ取りしやがって」みたいなことを冗談で言っていました(笑)。オーレ自身も選球眼がよくて、フォアボールもすごく多かったですけどね。ただ、敬遠はあまりなかったような気がします。
――それは、6番に勝負強い石毛さんが控えていたからじゃないですか?
石毛 そういう時代もありました(笑)。自分にもチャンスでまわってくることが多かったので、ランナーを還すのに必死でしたよ。
――当時の西武は足や小技を絡めた隙のない野球をしていましたが、デストラーデさんはすぐにフィットしましたか?
石毛 オーレは賢かったから、「 郷に入っては郷に従え」というように、すぐに「このチームはこういう野球をするんだろう」と理解できたんじゃないかな。西武はクリーンナップの秋山も含めて、どの選手も細かいことができたし、役割分担も明確でした。キヨだけは、ある程度自由に打たせていたと思いますが、そこにオーレのような長距離砲が1枚加わって、得点能力がかなり上がっていきましたね。
――AKD砲の後に6番を打つのは必死だったとのことですが、石毛さんが打ちたかった打順はあったんですか?
石毛 一番いいのはクリーンナップじゃないかな。細かいことをしなくてもいいし、打つだけでいいので(笑)。ただ、僕も多少は足に自信があったし、タイプ的には3番だったかもしれませんね。
オーレが入団した頃は1番を打っていた時期もありましたけど、やっぱり打ちたかったのはクリーンナップかな。3番や5番は打ったことがありますが、4番だけは1度もないんです。1回は打ってみたかったですね。
【デストラーデ加入による秋山、清原への影響】――デストラーデさんの活躍ぶりは、「助っ人の中の助っ人」という感じでした。
石毛 1989年のシーズン途中に西武に来て、一軍のデビュー戦でいきなりホームラン。それから80試合ぐらいで30本ぐらいのホームランを打つなど(83試合で32本)、日本の野球に順応するのが早かったです。打率は毎年.260ぐらいなのですが、毎年ホームランが40本前後で打点も100前後。昔と今では日本のピッチャーのレベルも違うので一概には言えませんが、それでもすごい数字ですよね。
――ちなみに、近年で活躍が目に留まった外国人助っ人はいますか?
石毛 質的にはDeNAの(タイラー・)オースティンと(ネフタリ・)ソト。特によく打っていた頃のオースティンは強烈でした。タイミングを取る時に体の動きが少なく、足も高く上げるわけではない。頭の位置もほとんど動かないので体がブレず、ボールをとらえる確率が上がります。パワーもありますし、体の軸がしっかりしたバッティングだなと。
――デストラーデさんの話に戻ります。デストラーデさんの加入は、秋山さんや清原さんにも、いい効果をもたらしたと思いますか?
石毛 秋山がデストラーデのことをどう思っていたかはわかりませんが、清原に対してはライバル心を持っていたのを感じました。逆にキヨは、デストラーデに対してライバル心があったと思います。先ほども話しましたが、デストラーデがおいしいところを持っていくので、ヤキモチを妬いていた感じがしましたね。
それと、キヨは本塁打王のタイトルを切望していたと思うのですが、デストラーデが西武に来て3年連続で(計5年在籍)本塁打王のタイトルを獲りましたよね。左右でホームランが打てる力を認めていた一方で、相当悔しかったんじゃないかな。いずれにせよ、3人はお互いに実力を認め合っていましたし、切磋琢磨できるいい関係だったと思いますよ。
――近年、デストラーデさんとお会いする機会はありましたか?
石毛 全然会えていないんです。テリー(・ウィットフィールド/1981〜83年に西武に在籍)とはロサンゼルスで会えたんですが、オーレとは会えていないので久しぶりに会いたいです。MLBのアカデミー事情とかも聞いてみたいですし、いろいろな話がしたいですね。
(前編:PL学園時代の清原和博から3奪三振 西武・渡辺智男の「真っすぐ」のすごさ>>)
【プロフィール】
石毛宏典(いしげ・ひろみち)
1956年 9月22日生まれ、千葉県出身。駒澤大学、プリンスホテルを経て1980年ドラフト1位で西武に入団。黄金時代のチームリーダーとして活躍する。1994年にFA権を行使してダイエーに移籍。1996年限りで引退し、ダイエーの2軍監督、オリックスの監督を歴任する。2004年には独立リーグの四国アイランドリーグを創設。同リーグコミッショナーを経て、2008年より四国・九州アイランド リーグの「愛媛マンダリンパイレーツ」のシニア・チームアドバイザーを務めた。そのほか、指導者やプロ野球解説者など幅広く活躍している。