83試合で32本塁打「これはすごい選手が来た」西武黄金期のレジェンド助っ人・デストラーデを石毛宏典が語る
オレステス・デストラーデ 前編
(連載8:西武と近鉄の「伝説のダブルヘッダー」で渡辺久信がブライアントに被弾「ナベちゃんは責められない」>>)
1980年代から1990年代にかけて黄金時代を築いた西武ライオンズ。同時期に在籍し、11度のリーグ優勝と8度の日本一を達成したチームリーダーの石毛宏典氏が、当時のチームメイトたちを振り返る。
前回の渡辺久信氏に続く9人目は、秋山幸二氏、清原和博氏と共に強力なクリーンナップ"AKD砲"を形成し、3度のホームラン王や2度の打点王を獲得するなど鮮烈なインパクトを残したオレステス・デストラーデ氏。前編では西武入団当時の印象、人柄にまつわるエピソードなどを聞いた。
黄金時代の西武で活躍したデストラーデ氏 photo by Sankei Visual
【「これはすごい選手が来た」】
――デストラーデさんは、西武黄金時代の後半にあたる1989年〜1992年および1995年に西武に在籍。石毛さんは約4年間チームメイトとして共にプレーしましたが、どんな方でしたか?
石毛宏典(以下:石毛) オーレ(デストラーデ氏の愛称)はとにかく陽気でした。1989年のシーズン途中に西武に来たのですが、出場試合数が少ないにもかかわらず、いきなり30本ぐらいホームランを打ったんじゃなかったかな(同年は83試合出場、32本塁打)。「これはすごい選手が来たな」と思いましたよ。
DHだったのでほとんど守備につく機会はなかったですが、ハンドリングはなかなかいいし、稀に起用されていたファーストの守備も悪くはなかったです。キヨ(清原和博)もそうでしたが、オーレも体が大きいから、ファーストに送球する際に安心感があるんです。ただ、当時の西武はほとんどのポジションでレギュラーが決まっていたので、DHで打ってくれさえすればよかった。希少なスイッチヒッターの長距離砲で、右でも左でもホームランをよく打ってくれました。
――身長が190cm以上あって大柄でしたが、3年連続(1990〜1992年)で二桁盗塁をマーク。足も速いほうでしたか?
石毛 そこそこ速かったです。体は大きいのですが、締まるところは締まったアスリート体型をしていて、バネのきいた走り方をしていました。身体能力に優れていましたし、バスケットボールなど、野球以外のスポーツでもうまくやれたかもしれません。だけど、3年連続で二桁の盗塁をマークしていた印象はないですね。「いつの間にそんなに走っていたんだ」という感じです(笑)。
【陽気で知的、愛された助っ人】――1989年のシーズン当初はタイラー・リー・バンバークレオ(登録名:バークレオ)選手が在籍していましたが、バークレオ選手が極度の不振に陥ったことが、デストラーデさんを獲得するきっかけになりましたよね。
石毛 当時、西武の球団管理部長だった根本陸夫さんは、通訳と一緒によく海外に行って外国人選手を探していましたからね。オーレはメジャーでの実績はほとんどありませんでしたが、根本さんが日本の野球で通用すると見込んで獲得を決めたんだと思います。大当たりでしたね。
――陽気な性格ということですが、すぐにチームに溶け込んでいた?
石毛 そうですね。最近で言えば、WBCの日本代表で活躍した(ラーズ・)ヌートバーのような感じで、自分から積極的に溶け込んでいこうという姿勢を感じました。会話での受け答えもしっかりしていましたし、チームメイトとふざけあうこともあった。自ら打ち解けていこうという人間は、仲間からも愛されますよね。
遠征先では、他のチームの外国人選手たちと一緒に食事に行くこともあったみたいです。そういうこともあって、日本の生活に早くから慣れていったんでしょうね。
――陽気な性格である一方、知的な雰囲気もありましたね。
石毛 オーレとは球場のロッカーが隣だったのですが、本を読んでいる姿を目にすることも多かったです。移動中の新幹線などでもよく本を読んでいましたね。オーレのお兄さんが弁護士で、自分も弁護士を目指していた時期もあったみたいですし、確かに知的な雰囲気を醸し出していましたね。
顔は映画『スーパーマン』に出ていた俳優(主人公のクラーク・ケント役だったクリストファー・リーヴ)に少し似た感じがあって、ハンサムな男だなとも思っていました。ホームランを打った後のガッツポーズもかっこよかったですしね。
――弓を引くような豪快なガッツポーズでした。
石毛 そうですね。工藤(公康)もマウンドで同じようなポーズをとっていましたけど、オーレのほうがかっこよかったかな(笑)。秋山は日本シリーズでホームランを打った後にバック宙でホームインしたりしていましたし、当時の西武の選手はいろいろなパフォーマンスをしていましたよね。
――ちなみにデストラーデさんは、チームリーダーである石毛さんのプレーや言動を、常にリスペクトしていたようですね。当時、デストラーデさんにどんな声掛けをしていましたか?
石毛 オーレが西武にやってきた頃、自分にはキャプテンの肩書がありましたし、グラウンドやベンチ、ロッカーでも、チームリーダーに見えるような振る舞いをしていたんでしょう。そういう側面を見て、一目置いてくれていたんだと思います。
あと、オーレはバッティングの調子が悪い時期がよくありました。ある時に「気持ちを切り替えろ!」と言いたくて、「Change your Heart!」って声をかけんです。そうしたら、「ハート? マインドではなくて?」と間違いを指摘されて(笑)。「それだと心臓をくり抜かれて死んじゃうよ」と笑っていましたね。
――好調な時には手がつけられなかった印象があります。石毛さんは「1990年の西武が、黄金時代の中でも最強だった」と言われていますが、同年の日本シリーズでデストラーデさんは2本のホームランを打つなどシリーズMVPに輝きました。この年の活躍がきっかけでメジャーの複数球団からオファーを受けるも拒否し、西武と引き続き契約しましたね。
石毛 親日家ということもあると思いますが、そういうところが彼の賢さなんじゃないかなと。普通に考えれば、年俸のいいメジャーの球団を選びますよ。ただ、彼にも考えがあったんでしょう。「いくら日本で活躍できたからといって、メジャーに行ったらどうなるんだろう。自分には日本のほうが合いそうだし、西武も歓待してくれている。今後も活躍を続ければ年俸も上がっていくだろうし、日本でプレーしていたほうが安定するんじゃないか」と。とにかくナイスガイだし、よく打つし、今思い返しても彼にはいいイメージしかありません。
(後編:清原和博はデストラーデにヤキモチ 西武「AKD砲」のライバル関係>>)
【プロフィール】
石毛宏典(いしげ・ひろみち)
1956年 9月22日生まれ、千葉県出身。駒澤大学、プリンスホテルを経て1980年ドラフト1位で西武に入団。黄金時代のチームリーダーとして活躍する。1994年にFA権を行使してダイエーに移籍。1996年限りで引退し、ダイエーの2軍監督、オリックスの監督を歴任する。2004年には独立リーグの四国アイランドリーグを創設。同リーグコミッショナーを経て、2008年より四国・九州アイランド リーグの「愛媛マンダリンパイレーツ」のシニア・チームアドバイザーを務めた。そのほか、指導者やプロ野球解説者など幅広く活躍している。