反町康治JFA技術委員長インタビュー(前編)

 今夏、30歳の遠藤航がプレミアリーグの名門リバプールに完全移籍するというニュースが飛び込んだ時、多くのサッカーファンが驚いた。

 移籍金は1900万ユーロ(約30億円)。背番号「3番」が与えられ、しかも長期の4年契約を結んだという。リバプールの提示した内容は、いずれも30歳の選手に対して異例の好待遇だ。

 2010年に湘南ベルマーレのユースからJリーグデビューを果たすと、2012年には19歳でチームキャプテンに就任。2016年から浦和レッズで3シーズンプレーしたのち、海外に活躍の場を移した。

 2018年、ベルギーのシント・トロイデンに完全移籍。翌シーズンからはドイツのシュツットガルトで5シーズンを過ごし、ブンデスリーガ屈指のMFと評価されるまでになった。

 その華々しいプロサッカー選手人生の原点であるベルマーレ時代、若き遠藤を見守っていたのが、当時の監督・反町康治氏だ。かつての教え子の成長ぶりを、どのように感じているのか。

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湘南監督時代に遠藤航を起用した反町康治氏 photo by Sano Miki

 サッカー選手のキャリアアップには、いくつものルートがある。

 J1のクラブから欧州のクラブへ移籍するのが王道だが、近年はJ2のクラブから海外へ渡ったり、高校や大学在籍時にスカウトされたりするケースも増えている。

 共通点があるとすれば、年齢だろう。海外移籍も、移籍後のステップアップも、若いほうがスムーズに進む。年齢が上がるほど、難しくなる。

 そうした状況下で、遠藤航は30歳でビッグクラブへ──プレミアリーグの名門にして強豪のリバプールの一員となった。

「日本代表レベルにはなるだろう、と感じていた。けれど、リバプールのようなクラブへ移籍するとは、当時は想像できなかったかな」

 日本サッカー協会(JFA)技術委員長の反町康治は、「それが率直なところだよ」と言い添える。

 遠藤は湘南ベルマーレの2種登録選手として2010年にJリーグデビューを飾ったが、17歳の高校3年生をピッチへ送り出したのが反町だった。

【航は実戦を通じて学んでいく力がある】

「その年の5月のリーグカップで初めて使って、リーグ戦では9月の川崎フロンターレ戦が初めてだった。どちらの試合も前半で交代させている」

 3つのJクラブと北京五輪代表を指揮した反町にとって、ハーフタイムの選手交代は例外的と言っていいものだ。前半のパフォーマンスが物足りない選手にも課題を与え、後半10分ほどまで見てから判断していた。

「それでもハーフタイムに代えたというのは、理由があったんだよね。フロンターレ戦はボランチで使ったんだけど、アクションとリアクションのスピードは向こうのほうが上だったかな。シンキングスピードはあったかもしれないけど、その時はまだ経験値もほとんどないし、サッカーIQがまだまだ高くなかったから」

 2010年の湘南は4-3-3を基本布陣としつつ、3-4-2-1でも戦った。アウェーゲームの遠征時は学生服で移動する遠藤を、反町は4-3-3のアンカー、3バックの中央、4バックのCBで起用した。

「最初は中盤で使っているんだけど、4枚のCBのひとりだと経験値も高くないし、シンキングスピードやランニングスピードに慣れていないから、いきなりCBはちょっと厳しいかなという判断だった。

 ただ、ビルドアップで持ち出す、相手を見ていいところへボールを置く、縦パスをズバッと通すといった攻撃的な部分は、見るべきものがあったよね。3バックのひとりなら、スッと持ち出せてルックアップできる。チーム状況との兼ね合いというのはもちろんあったんだけど、航をうしろで使うのは、うしろからビルドアップをしたいというメッセージでもあったかな」

 2010年のJ1で6試合出場1得点の成績を残すと、2011年はJ2で再出発を図るチームで34試合に出場する。プレータイムはフィールドプレーヤーで3番目に長かった。

「遠藤航という選手は、実戦を通じて学んでいく力がある。ものすごくスピードがあるとか、長身であるとか、足もとの技術が際立っている、とかいうわけではない。ただ、試合を重ねることで、サッカーIQをどんどん上げていったと思う」

【ボールをもらった時に、航は360度が見えている】

 試合の前々日や前日の練習とミーティングでは、相手の分析に基づいた戦略が刷り込まれていく。インプットしたものをアウトプットするレベルが、遠藤は高校生当時から高かった。

 反町が指揮する湘南は、運動量、切り替えの速さ、プレーの強度といったもので相手を上回ろうとした。そうした環境で揉まれた遠藤が、のちに「デュエル」を代名詞とするのは納得感があるが、反町は「俺が教えたものではない」と言う。

「球際で戦うというのは、もちろん強調していた。ただ、そのなかで航が際立って強かったかと言えば、決してそうではなかった。相手がこう来たらボールを取れるとかいうのを、経験値としてどんどん蓄積して、サッカーIQに組み込まれていったと思うんだ」

 先天的に持つ強みもあった。ヘディングの強さである。身長は180cmに満たないが、湘南在籍時から空中戦をストロングポイントとしてきた。リバプール加入後初ゴールも、ヘディングで決めている。

「航のヘディングはタイミングがいい。こちらのリスタートに相手がマンツーマンでついてきたら、どのチームもCBとCFに背の高い選手をつけてくる。向こうの4番目か5番目の選手が、航をマークする。そこでミスマッチが起きて点を取れる可能性が高まる、というのは計算していた。身体のぶつかり合いで、弾き飛ばされない。重心がしっかりしているんだ」

 反町が2011年に湘南の監督から退くことで、遠藤との直接的な関わりは終わりを告げることになる。それでも、対戦相手の選手として、技術委員長と日本代表選手として、遠藤の歩みを追跡してきた。

「インターナショナルなレベルで戦うと考えた時に、ボランチは適正ポジションかなと思う。うしろからボールをもらった時に、航は360度が見えている。

 相手がこっちから来ていれば逆にコントロールするし、来ていなければスッとターンする。レイオフをして縦パスを入れるとか、そういうプレーができるボランチは、実はそれほど多くない。俺が監督だった当時はそこまで洗練されていなかったけれど、その後の経験でレベルアップしていったんだと思う」

【二個、三個先まで先回りして答えられるようになった】

 湘南から浦和、シント・トロイデン、シュツットガルトを経てリバプールに辿り着いた彼のキャリアは、確実に右肩上がりだ。中長期に振り返ると、浮き沈みの「沈み」の時期がないのである。

 遠藤自身も「自分の平均値を上げていくのは、ずっとやり続けている部分です」と語っている。シュツットガルトでの2シーズン目を控えた2020年夏には、「プレーするリーグのレベルが上がっていくほど、平均値が上がっていく感覚が個人的にある」と話していた。

 遠藤のコメントを聞いた反町は、「なるほどな」とうなずいた。

「テレビのクイズ番組でも、慣れている回答者は答えが早くなる。この質問はこういう引っ掛けだと先回りして、最後まで聞かなくても答える。

 我々と一緒にやっていた当時の航は、質問に対して真っ直ぐに答えるレベルだったけど、リバプールでやっている今は二個、三個先まで先回りして答えられるようになっているんだと思う」

 実戦を通じて学んでいく力が、成長の原動力だとすれば──。

 世界のトップ・オブ・トップのリバプールの一員となった遠藤は、サッカーIQを猛烈に刺激される日々を過ごしているに違いない。

 30歳は、さらに進化していくのだろう。

(文中敬称略/後編につづく)

◆反町康治・後編>>技術委員長の仕事「三笘薫の少年時代のプレー映像があれば...」


【profile】
反町康治(そりまち・やすはる)
1964年3月8日生まれ、埼玉県さいたま市出身。清水東高→慶應大を経て全日空に入社。横浜フリューゲルス誕生後も社員選手として続けるも、1994年にベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)へ移籍した際にプロ契約を結ぶ。1997年に現役引退。2001年〜2005年はアルビレックス新潟監督、2006年〜2008年は北京五輪世代のアンダー日本代表監督、2009年〜2011年は湘南ベルマーレ監督、2012年〜2019年は松本山雅FC監督。2020年3月に日本サッカー協会・技術委員長に就任。日本代表4試合0得点。ポジション=MF。身長173cm。