「プロ野球で1億円稼いだ男のお金の話」鵜久森淳志(後編)

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 2015年に日本ハムから戦力外通告を受けた鵜久森淳志氏はトライアウトを経て、ヤクルトに入団。16年にはキャリアハイとなる46試合に出場し、シーズン終盤は5番を任されるなどチームに貢献した。その後はおもに代打として活躍するも、徐々に出場機会を減らし、18年シーズンオフに自身2度目の戦力外通告を受け、現役引退を決意。引退後は野球の世界から離れ、生命保険のライフプランナーとして活躍。鵜久森氏にプロ野球時代、引退後の世界について聞いた。


2017年4月2日のDeNA戦で代打サヨナラ満塁本塁打を放った鵜久森淳志 photo by Kyodo News

【やっとチームに貢献できた】

── 現役続行を望んだ鵜久森さんは12球団合同トライアウトを受け、ヤクルトに入団することが決まりました。

鵜久森 スワローズに移籍した1年目は、ある程度、期待に応えられたかな。自分でそう思えたのはその年だけですね。やっとチームに貢献できました。

── 2016年、鵜久森さんは46試合に出場。146回打席に立ち、放ったヒットは35本。そのうちホームランが4本、19打点を記録しました(打率.257)。

鵜久森 一度クビになったのに拾ってもらえたということで、スワローズに移籍してからマインドが変わりました。それまでは自分が活躍することしか考えていなかったんですけど、気持ちを向ける方向が変わりました。チームのために、この人たちのためにと。

── 鵜久森さんの年俸は1300万円まで上がりましたが、2017年は45試合に出場して18安打、1本塁打、打率2割9厘。2018年は19試合に出場、17打数5安打で打率2割9分4厘、0本塁打。2018年のシーズンオフ、2度目の戦力外通告を受けることになりました。

鵜久森 プロ入りした時に目標にしていた1億円プレーヤーにも、レギュラーにもなれなかったし、打撃タイトルも獲得できなかった。でも、もし1.5軍のベストナインがあれば、僕は間違いなく選ばれますね(笑)。

── 戦力外通告されたあと、どういう行動をとりましたか。

鵜久森 トライアウトを受けるためにというよりも、自分の気持ちを整理するために、グラウンドを走りながら「これからどうする? 何をすればいい?」と考えました。まだ30代前半だったので、「野球以外の世界でも、まだ間に合うんじゃないか」と。それからいろいろなお話をいただいたんですけど、「野球の仕事はしません」と言ってお断りしました。

── 鵜久森さんは野球の世界を離れて、ソニー生命に入りライフプランナーになりました。それまでとまったく違う世界への転身です。

鵜久森 どういう道を選べば、自分の経験が生かせるのか、次につなげられるかを考えました。最終的には、働く環境で選ぼうと思いました。誰と一緒に働きたいかを考えて。二軍の試合でよく顔を合わせていた同い年の青松慶侑(元ロッテ)が先にソニー生命に入っていました。そういう縁もあり、選んだ仕事がライフプランナーです。はじめは「営業マンって何するの?」と思いました。「保険を売るって?」というぐらい無知でした、本当に。

【パソコンは使えず、コピーもとれない】

── 文字どおり、ゼロからのスタートですね。

鵜久森 ソニー生命は研修制度がしっかりしているので、ビジネスマナーなど基礎的なことはすべて教えてもらいました。おかげでお客さまの前に出ても苦労することはありませんでした。研修はずっと座学で1カ月、毎日が勉強でした。パソコンはまったく使えず、はじめは指1本でキーボードをタッチしていました。コピーのとり方もわからないし、FAXも送れませんでした。仕事を始めるにあたって、困ったことばかりでした。

── ほかに戸惑ったことは?

鵜久森 お客さまに「リスケお願いします」と言われても、その意味がわからない。「なに、それ?」と思って(笑)。知ったかぶりをすると大変なことになるので、わからないことはわからないと言うようにしていました。聞き慣れない言葉があったら全部メモして、あとで調べるようにしました。

── 鵜久森さんがプロ野球選手だったことに気づく人はいましたか。

鵜久森 自分からアピールすることはありません。ただ、背が高いので「何かスポーツをしていたんですか」と聞かれることが多くて、その時には正直に答えます。だけど、僕のなかで、自分はもう野球選手ではありません。ただの、体の大きい36歳です(笑)。

── ソニー生命に入社してどれくらいに経ちますか。

鵜久森 2019年に入社したので、今年で5年目になります。勤務スケジュールは、基本的に、月曜日と木曜日にはミーティングがあるので出社します。平日のどこでアポイントメントを入れるか、いつ事務作業をするのかは自分で決めて、調整しています。たとえば、土曜日の10時から商談して、次の場所に移動して14時から商談。また移動して19時から商談、みたいなスケジュールになります。お客さまのスケジュール優先なので、土日も関係ありません。それはプロ野球選手時代と同じですね。

── ユニホームを脱いでから気づいたことはありますか。

鵜久森 野球という競技では、スターティングラインアップに名前が並ぶのは9人か10人。監督がいろいろなことを決めますよね。どれだけ自分の調子がよくても試合に出られないことがある。打席に立てないと反省できませんが、ライフプランナーという仕事はそうじゃない。商談をして、ご契約していただくか、いただけないかという結果が出ます。うまくいかなかった時に、「何がいけなかったのか」と振り返ることができる。そこが一番の違いですね。

── セカンドキャリアに悩む元プロ野球選手にアドバイスを送るとしたら?

鵜久森 毎年、シーズンオフになると、プロ野球選手から相談を受けます。はじめに確認するのは、その人が何をしたいのかですね。その選手がやりたいことを仕分けしてあげることから始めます。まずその人をフラットな目で見て、方向性を示して、選択肢を出してあげるようにしています。いずれにしても、ご飯を食べるためには何かを始めないといけない。もう終身雇用の時代ではないので、手に職をつけるか、自分で切り拓いていける力をつけるか、そういう準備が必要だという話をします。次の人生の選択は本当に大事ですから。

── 今後の目標は?

鵜久森 将来的には、プロ野球選手のように稼ぎたいという思いはあります。でも、どんな仕事でもそうでしょうが、そんなに簡単に年収は上がりません。僕がプロ野球選手だったことは、時間の経過とともに忘れられます。その間に、僕は自分で成長していかないといけない。最後は自分次第。プロ野球選手の時よりも責任を感じながら働いています。


鵜久森淳志(うぐもり・あつし)/1987年2月1日、愛媛県生まれ。済美高3年時に春のセンバツ大会で初出場・初優勝を果たし、夏の甲子園では準優勝。大会後、高校日本代表に選出され4番を担った。04年ドラフト8位で日本ハムから指名を受け入団。右の長距離砲として期待されるもレギュラーに定着できず、15年に戦力外通告を受ける。トライアウトを経てヤクルトに入団すると、シーズン終盤は5番に定着。その後も代打として活躍するも、18年に戦力外となり現役を引退。現在はソニー生命のライフプランナーとして活躍中